セミリタイアするまで非正規

正社員になれないことが分かった三十代。労働者のままでは死にかねないので、非正規のままセミリタイアを目指している、色んな意味で駄目なヤツ。

「悪貨は良貨を駆逐する」という名言 経済的「悪」をとるか、道徳的「善」を貫くか

gigazine.net

GIGAZINE が、"Farnam Street"という海外の教養ブログを取り上げている。「悪貨は良貨を駆逐する」という古い経済法則が、あのリーマンショックで再現されていたどころか、その原因にすらなっていたという、面白い考察。

ちなみに、この「グレシャムの法則」は、グレシャムよりも前にコペルニクスが指摘しており、さらにそれよりも前からキリスト圏やイスラム圏では認識されていたらしい。予想以上に古かった。

要約すると、返済能力のない人への貸付けを行った銀行=悪貨、健全な貸付のみを行った銀行=良貨に例え、悪貨が横行して住宅バブルが膨らんで弾けた結果がリーマンショック。詳細は、記事中でとても分かりやすく解説されている。

 

 

悪貨は少なくなった資本を立て直すために創られたものだから、必然的に良貨よりも資本を増やす効果が高くなる。だから、資本主義社会で悪貨が流行するのは必然であり、本来は善悪で語ることはできないはずだ。それでも「悪」と呼ばれるのは、長い目で見れば資本主義に「悪」影響を及ぼすからで、道徳の善悪とは異なるものなのだろう。

サブプライムローンだって、元々はカネの無い人が家を買うための制度で、悪意のあるものではない。サブプライムローンを利用して儲けていた人たちも、制度の趣旨から外れてはいるけれど、その目的が資本を増やすことならば、資本主義社会に於いては悪人と定義することはできない。その結果がリーマンショックだとするならば、リーマンショックは資本主義社会に於いて資本を増やすことを目的とした結果なのだから、道徳的な「悪」ではなく経済的な「悪」となる。

しかし、サブプライムローンを乱用する投資家がいなければ、リーマンショックは起こらなかったかもしれない。リーマンショックが起こらなければ、不況も起こらず、倒産や失業や借金に苦しむことも無かったかもしれない。そう考えると、経済的な「悪」を道徳的な「悪」と完全に切り離してしまっていいのだろうか。苦しんだ人々の中には、死を選んだ人だって含まれる。経済的な「善」を理由に、人の命を資本以下の価値に置き換えることが許されるならば、果たしてそれは道徳的な「悪」ではないと言い切ることは出来るのだろうか。

 

 

何でそんなことで悩んでるんだよ、貧乏人のくせに!と思われそうなので説明すると、私はある大きな買い物と年金対策のために投資をしており、その投資先が株価インデックスだからだ。(ちなみに全世界株式とS&P500)インデックス投資は指数に投資するためローリスク(指数の種類によるけど)で、銀行に預ける以上のリターンを得るためには必然的に長期運用となるため、リーマンショックやコロナのような大不況にも対応しやすい。

しかしインデックス投資は、自分で投資する企業を選ぶことは出来ない。株は投資家が将来性のあると見込んだ企業に、利益を出してもらうために投資するのが本来の姿だ。しかし、インデックスの場合は指数に関係している多数の企業に投資するため、投資家が興味のない企業にも資金が渡ってしまう。その中には(経済的にも道徳的にも)「悪」い企業が混ざっている可能性もある。そのため、健全な経済成長が妨げられるとして、インデックス投資を良く思わない専門家もいる。私もそのことは知っているし、不健全な資本主義を助長するのも嫌なのだけれど、それ以上に自分のセミリタイアや老後の方が心配だし、インデックス以外の投資は貧乏人にとってリスクが高すぎる。

そんなことを考えているので、「悪貨は良貨を駆逐する」をテーマとした記事には色々と考えさせられた。資本を増やすためにインデックス投資を行っている私の行動は、資本主義的に考えれば「善」だ。しかし、まともに働いている人々を追い詰めかねない「悪」に加担しているという罪の意識がどうしても拭えない。「悪貨は良貨を駆逐する」とは、このジレンマを突いた名言だったのだと改めて気づかされた。

 

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