なぞなぞ

AI始めました。

冬眠したいという話

2月の最初の週は、本当に寒かった。

吹雪いて、積もって、朝が来てもまだ吹雪いて、さらに積もって...

それで寒さにやられたのか、翌週の最初はずっと体調を崩していた。11日の建国記念日は、1日中寝て食べてを繰り返していただけなのに、寝れば寝るほどダルいし頭痛いしの悪循環。「寝だめはできない」と最近きくけれど、正しいと思う。

 

寝だめもそうだけど、ヒトは冬眠もできない。クマもリスも冬眠できるのに、なぜヒトはできないのか。

調べてみると、ヒトは体温が下がりすぎるとカルシウムが動かなくなり、カルシウムが流れないと心臓(正確には心筋細胞)が動かなくなって心肺停止となるそうだ。へえ。

また、クマは冬眠中に排泄しないため、冬眠中とそれ以外の体内の仕組みが違うんじゃないかと考えられているそうだ。へえ、へえ。

 

つい最近の2025年には、筑波大学から「脳損傷治療に有効な冬眠様低体温状態を誘導する汎⽤的新⼿法を開発」という論文が発表された。

 

マウス脳損傷モデルにおいて、視床下部にある Q ニューロンという神経細胞を刺激して誘導される冬眠様低体温状態が、神経炎症を抑え神経細胞の⽣存と運動機能の回復を促進することを明らかにしました。
外部冷却を⽤いない⽣理的低体温法として、外傷性脳損傷の新たな治療戦略になる可能性があります。

出典:https://www.tsukuba.ac.jp/journal/pdf/p20251014020000.pdf

 

 

実験で冬眠状態になったのはネズミだけど、ヒトにもQニューロンがあって同じように「冬眠用低体温状態」になれるなら、冬眠できるかもしれない。

 

さらに2020年には、スペインのアタプエルカ遺跡という、どこで区切るのかよく分からない名前の遺跡で発掘された人骨から、冬眠のような形跡ありという研究発表が報じられている。大昔、寒い場所で暮らしていたヒトは、冬眠ができたのかもしれない。

 

少し希望が出てきたところで、ヒトが冬眠できるようになったら、一体どんなかんじになるのか考える。

いまさら、アタプエルカ遺跡の古代人に先祖返りすることもないだろうから、実現するとしたら科学の力だ。ということは、いつ冬眠できるかをヒトが決められるはずだ。

時期を好きに選べるのなら、冬に拘る必要はない。夏の暑さの方が辛い人は、夏に眠ればいい。花粉がきついなら春に眠ればいい、「春眠暁を覚えず」と昔の中国のすごい詩人も詠ってるし。毎年秋になると過去を思い出して哀しくなる、みたいな事情があるなら、秋に眠ってしまえば哀しくならずに済むかもしれない。

 

私自身は、いつ冬眠するかと訊かれたら冬一択だけどさ。

12月くらいに入眠して、3月半ばに起きられればなあ。年越しも正月もバレンタインも無くなるけど...

 

 

 

 

 

 

バカだろうとそうでなくとも、人は高みに憧れるという話

※イラストは生成AIが作成。1枚目はGemini。2枚目はGrok。

自分の職場は駅直結で、通勤途中にも駅から外に通じる長い通路がある。端から端まで歩いて5分弱はかかるだろうか。

その通路の注意書きの中に、「自転車で通らないように」というものがある。その通路はいつも人でいっぱいで、足で通り抜けるにしても常にパーソナルスペースの隙間を探しながら歩かねばならないのに、何をどうトチ狂ったらそんな場所を自転車で走り抜けようと思うのか。そんなヤツいるのだろうか。でも、毎日毎日注意されるくらいだから、いるんでしょうね。

 

ところで、例の通路は天井が高いので、頭上には広い空間がある。毎日毎日、混んでて大変なのに、ちょっと腕を伸ばせば手つかずの空間が広がっている。目的地まで、あの空間を通っていけないものだろうか。手つかず足つかずのデッドスペースを。

...なんてことを、出勤中の現実逃避で考えたことがある。すると、自転車で通りたくなっちゃう人の気持ちも、少し分かったような気がした。やらないけど。

 

都市の空中空間を活用する。すぐに思いつくのは、電車や車が走る高架、何十階もある高層ビル、展望台。人口が多い中国の都市部には、ジェンガのような高層住宅があるし、アメリカのミネアポリスという都市には世界最長の Skyway なる建物同士を繋ぐ道路?橋?があって、外に出なくても建物同士を移動できるので特に寒い冬は便利だとか。

 

お金持ちはタワーマンションの高層に住みたがるし、古代ギリシャ人は高台に集まっていた。神様は空の上に住みがちで、その神様に近づくためにバベルの塔という虚構が生み出された。

ヒトは昔から、高い場所を特別視して、高い場所を目指してきた。

いつか、地上に住む人間は居なくなるだろうか。

 

もし、地上に住まないことが当たり前の世界になったら。人間の存在は当たり前なのに、地上には誰も存在しない世界。

もしそうなれば、地上はとても広くてこの上なく静かな場所になるだろう。空を目指しながら地面を顧みるほど、人間は器用でも暇でもない。

そんな世界で、私は地上に残って一人で暮らしている。人間が空中で暮らすようになってから、ただでさえ狭かった都会の空は、より狭く遠くなってしまったが、その代わりに、自分とは違う世界で暮らす自分と同じ人間たちの世界を、外から好きなだけ眺められるので、まあ悪いことばかりでもない。どうしても広い空を間近に見たかったら、北海道やオーストラリアに行けばいいのだ。

たまに、同じように地上で暮らし続ける人と出会うことがある。そんなとき、我らが地上人はどうするのかというと、カップラーメンを一緒に作って食べるんである。食べる場所は、必ず外でなければいけない。外で、100度で沸騰するお湯を使って、3分待つ。

これは、空中都市ではできない。もちろん、建物の中に入れば気圧を調整するテクノロジーがなんちゃらかんちゃらで水は100度で沸騰するが、外ではそうもいかない。富士山の山頂では、お湯の沸騰温度は85度~90度弱まで下がってしまう。空中都市もそれくらいだろう。そして、低い温度で沸騰した水を使ったカップラーメンは、美味しくないのである。

 

というわけで、美味しいカップラーメンを外で食べ終えた我々地上人は、しばらく身の上話をすることもある。定番の話題は、「なぜ地上に残ったのか?」である。話したがらない人もいるけど、私は訊ねられれば、いつも快く答えている。

「実は、わたし... ... 高所恐怖症なんですよねっ!」

 

 

ドラゴンや龍と一緒に暮らせる世界で、自分が逝ったときの妄想をする話

 

※記事中のイラストは、生成AIで作成(1枚目がChat GPT、2枚目がCopilot)

 

 

もし、ドラゴンや龍と一緒に暮らせる世界があるとして、一番の問題は「人間が死ぬとき、残されたドラゴン(龍)は、どうなるのか?」だろう。どう考えても、あっちの方が長生きだしね。

 

それはそれとして、独り暮らしが死ぬときの問題の一つに、「遺された動産ないし不動産は、どうするのか?」というものがある。私も死にたくなったときは、この問題にキチンと向き合うようにしている。ワケの分からない本や趣味の品々を前に、売ったものか捨てたものかそもそもこれらにどれくらいの価値があるのかと途方に暮れる家族のことや、せっかく貸した部屋が事故物件化して悲嘆に暮れる大家さんのことを考えると、再び生きる気力が簡単に湧いてくるほど世のなか単純ではないけれど、とりあえず早まる気持ちは収まるので、死にたくなったときは是非お試しください。

 

そこで、最初のもしドラゴンや龍と一緒に暮らせる世界だったら~という話に戻って、彼らは賢いので、連れ添ってきたパートナーの死も理解できるんである。もしかしたら、そのときを予感しながら過ごしてきたのかもしれない。

私が死んだら、パートナーのドラゴン(龍)は、私の身体を燃やしてくれるだろう。もちろん、住居に火炎放射したら大惨事になると分かっているので、彼らはそんなことはしない。この世界には、人間が死んだときにパートナー(人外含む)が遺体を運び込める施設があって、事前に手続きをしていれば、そこで死後の処理ができる。

私のパートナーも、その施設に私と私の持ち物を運び込んでから、炎ブレスで全部まとめて消し炭にしてくれる。そうするように、事前にふたりで決めていたんである。ちなみに、私は散骨を希望しているので、パートナーは残った私の骨を踏むか握るかして粉々に砕いてから、どこかいい感じの場所で撒いてくれるだろう。そうするように、事前にふたりで決めていたんである。

それが終わったら、私のパートナーは、どうするんだろうか。それについては、ふたりとも何も決めていなかったのである。新しい人間のパートナーを探すのかもしれないし、ひとりになったら住もうと決めている場所へ向かうのかもしれないし、しばらく何もかも忘れるため世界一周するのかもしれない。

 

 

と、ここまで妄想したのはいいが、もし私のパートナーが炎属性意外だったらどうなるんだろうか。雷属性なら落雷でいけるかもしれないが、水属性や闇属性だと、どうしようもない気がする。聖属性だったりしたら、下手したら黄泉帰させられてしまうかもしれない。

まあ、この施設は国営(という設定)なので、そこらへんは公務員が何とかしてくれるでしょう。

 

24時間制の快適読書空間が欲しいという話

 

※イラストは、chatGPTが制作

 

最近、平日に本が読めなくて困っている。

仕事が終わるともう真っ暗だから、図書館まで行くのが寒いし、行ったとしても少ししか読めないし、夕飯も遅くなる。かといって、家の中で寝るまで読もうと思っても、寒くて集中できない。だから、ホットカーペットで温めた布団の中で読もうとするんだけど、すぐ寝落ちしてしまう。喫茶店はおカネがかかるから、贅沢だ。

 

というわけで、好きな時に好きなだけ、本を読めて快適空間な場所が欲しい。

24時間制のスポーツジムは、いろんな場所にあるじゃないですか。あれの、読書版。

好きな時に、ふらっと立ち寄れて、ドリンクのワンオーダー制とかもなくて。

このイラストだと、真ん中に温泉があるから、温泉に浸かりながら読んだりもできるね。奥にコーヒーメーカーが見えるから、疲れてきたらコーヒー飲んで、窓の外を眺めながらウロウロして、「うっし、再開するかー!」つって、床にごろんと寝転がっちゃったりして。

で、読んでるうちに眠っちゃったりする。そしたらね、自宅までそっと送り届けてくれるんですよ。プライバシーがどうのこうのって人には使えないサービスだけどね。そんで、家の前に着いたら、「お家に着きましたよ」ってそっと起こしてくれるんですよ。遠隔操作による、脳内テレパシーで。もう、最高ですね!あとは、鍵を使って帰るなり、ドアの前で眠るなり、好きにすればいいんです。私だったら、家の中で寝るけどね。

料金は、スポーツジムと同じ月額制。払ってしまえば、「おカネ出したんだから、通って読まねば...」という使命感も手伝って、読書がはかどるはず。

 

ところで、自宅送り届けサービスは居酒屋にこそ欲しい!と一瞬思ったけど。

まあ、あれば非常に便利なんだけど、やっぱり居酒屋だったら、しこたま飲んで、いつの間にか自分で家に帰ってて、「あれ、いつどうやって帰ってきたんだっけ?」と首をかしげた記憶すら朧気に、いつの間にか自分で布団を敷いていつの間にか眠ってていつの間にか朝になってて、眼鏡も自分でちゃんと外してて、ってとこまでがワンセットですね。

というわけで、居酒屋にこのサービスは不要です。「覚えてないけど、自分で〇〇してて」ってとこが、ミソなんです。居酒屋の。

 

マカロンをお腹いっぱい食べてみたいんだよね、という話

※画像はchatGPTで作成

 

冬アニメの時期ですね。

『死亡遊戯で飯を食う』というアニメの1話が面白かったです。

 

というわけで、そのアニメに登場した「メイド服の少女がマカロンを食べまくる」シーンに触発されて、GPTに私の脳内をイラスト化してもらった。絵心皆無でも、妄想を具現化できる。なんてすばらしいツールなんでしょうか、生成AIとは!

もっとも、元となったアニメ自体は、こんなホンワカした雰囲気では全く無いんだけれど...

 

私は、美味しいものをお腹一杯食べると幸せになれるタイプの人間です。(アルコールがあると、尚良し)

では、何を食べて幸せになるかと考えたときに、「身近にあるから実現できそうだけど現実には厳しい」ものとして、マカロンは上位に挙がるのではないか。美味しいものは、1粒で300~500円くらいする。それを皿いっぱいに盛るとしたら、20~30個は必要だとして、6000~15000円。奮発すれば用意できなくもないけど、じゃあやってみるか?と訊かれたら「そんなお金があったら、他のことに使います」となるだろう。誰かが用意してくれるなら、すごく嬉しい。でも、自分の身を切るほどではない。そういう意味で「実現できそうだけど、現実には厳しい」というわけです。

 

ところで、このメイドちゃんは食べ方が奔放すぎやしないだろうか。(自分で作っといてアレだけど)

たしかに、マカロンは崩れやすいのでクズがまみれやすくはあるけど、このイラストの食べこぼしはそんなレベルじゃない。最初に握りつぶして、中のクリームだけ喰っているんだろうか。

そもそも、どうやってマカロンを調達したのだろう?まだ若いメイドともなれば、給料も高くはないだろう。ということは、用意したのは彼女以外の誰かだろう。

あるいは、彼女は今日が最終出勤日なのかもしれない。メイドであれば、どこかお金持ちの家に雇われる。そして、家人はどうしても用事で家を空けねばならず、お世話になったメイドちゃんに「ささやかな」贈り物として、マカロンをあげた。「今日のお仕事が終わってから、お家でゆっくり召し上がってね」などと言って。

しかし、メイドちゃんはそうしなかった。自ら奇麗に整えた他人の家で、自ら磨いた曇り一つない他人のアンティーク食器を使って、ついでに紅茶なんかも沸かしちゃって、マカロンを堪能した。せっかく奇麗にしたテーブルも食器も床も、カラフルなマカロンのくずで、玩具をぶちまけた様にごちゃごちゃに散らかっていく。でも、そんなことは問題ではない。家人が戻ってくるまでに、また奇麗にすれば良い。今はただ、お腹いっぱいマカロンを食べて、紅茶を飲んで、椅子の上で惚ける時間なのだから。

 

紅茶じゃなくて、ワインにしても良かったな。

ベランダに出してたスポンジが吹っ飛ばされた話

※画像はchatGPTで作成

 

今日はとても良い天気だったので、風呂場掃除用のスポンジをベランダで乾かしていたら、午後からの強風で吹き飛ばされてしまった。

一緒にシーツやタオルなんかも干していて、そっちは旗のように煽られているのが見えたので、キチンと取り込んだ。あー飛ばされないでヨカッタヨカッタ、いいかんじに温まったなーとか思いながら。

でも、風呂場掃除用のスポンジのことは、すっかり忘れていた。室外機の上にポンと置いただけだったので、毛布その他を取り込んだ時には、もう手遅れだったかもしれない。とにかく、そこに居るはずのスポンジは、影も形もなくなっていた。

そんな自分の迂闊さにもショックだったけど、一番衝撃だったのは、風呂場掃除用のスポンジを無くしても全然哀しくないことだった。自然に、「あーあ、また新しいの買わないとなー」と考えていた。我ながら、薄情すぎやしないか?と。

そのスポンジは、もちろん役に立っていた。今朝だって、一緒に浴槽を奇麗に磨いた仲だった。だからこそ、ベランダに持って行ったのだから。

どうして、そのスポンジに愛着を持つことができなかったんだろう。そうであれば、「飛ばされない工夫をしていれば...」とか、「あと3か月は一緒に浴槽を磨けたのに...」とか、多少なりとも後悔したはずなのに。実際には、「また新しいの買えばいっか」という薄情っぷり。

あるいは、自分で思っているほど、風呂掃除に対する情熱がなかったのかもしれない。毎日、もっと丹精込めて浴槽を磨くべきだったのかもしれない。そうすれば、同じ情熱を分かち合った同志として、自然とスポンジに対する情が沸き、その喪失感もいや増しただろう。それはそれでどうなんだ、ってハナシではあるが。

 

と、いうわけで新しいスポンジを買う必要があるんだけれど、そもそも、何処で出会ったのかも覚えてない。これが人間の恋人同士なんかだったりしたら痴情のもつれからの今生の別れに発展しかねない大失態だが、やっぱりスポンジ相手だとそこまでの乱痴気騒ぎにはなるべくもない。出会った場所は覚えてないが、200円はしなかったということは覚えている。

マッタク、人間とは薄情なものだ。

矢印鳥


薄曇りの午後。港町の外れで、矢印鳥に出会った。

その日は、働くことをやめてから、三週間が経っていた。もう三週間?と驚いてから、たったの三週間?と落ち込んだ。何もかもどうでもよくなって、気が付いたら電車に乗って、ゆらゆらと終点まで座り続けて、仕方ないので電車を降りて、時の経過に沈みかけている駅を後にして、歩いた。

ふと道が分かれていることに気が付いて、顔を上げた。山と海の境界に来ていた。道は三つに分かれていて、港町に至る舗装された道と、山に滑り込む砂利道。そして、どちらにも続かない、行き止まりに見えなくもない、四十五度ほどの微妙な斜め道。

矢印鳥が指しているのは、その斜め道だった。鋭い嘴が、はっきりと指している。羽は水平ではなく、上下にまっすぐ伸び、体の芯が一本の線でできているようだった。羽ばたく気配はなく、風に揺れることもない。鳥は、斜め道の入口にある街灯に止まっていたが、まるで空間に打ち込まれた記号のようだった。

「ああ、これか」

思い出した。私は初めて見るが、旅行好きの友人は年に一度くらいは見かけるらしい。ヨーロッパの旧市街や、山間の温泉町で見たことがあると言っていた。「矢印鳥が指すとおりに歩いていけば、目的地に着いちゃうんだよねー」便利便利、と友人は矢印鳥を褒めていたっけ。

そういうわけで、私は45度の斜め道を進んでいくことにした。友人と違って、私に目的地はなかったけれど、矢印鳥はそこ以外に道はないとばかりに、同じ方向を指し続けていた。私が近づいても、逃げるどころかハタと動く気配すらなかった。

道は、港らしき場所へ向かう古い階段に変わっていた。階段は潮に削られ、ところどころ欠けていた。降りていくにつれ、すでに薄くなっていた町の音は完全に消えてしまい、波と鉄のきしむ音だけが残った。階段の先には、使われなくなった浮桟橋があった。錆びた鎖、割れた木板、色を失ったブイ。まともな案内板であれば「暗くなってからは立入禁止」と書かれかねない。以前なら、ここで引き返しただろう。行くべき場所はいつも別にあったからだ。だが今は違う。行くべき場所は、もうどこにもない。

港には、釣り糸を垂れている老人がいた。

「釣れますか?」と尋ねると、彼は首を振った。

「釣る気がないからな」

私も桟橋に腰を下ろした。沈黙が苦にならない、不思議な空気だった。波の音だけが、いつまでも続いている。

「どうして、ここへ」

今度は老人が尋ねてきた。

「なんとなくです」

答えてから、今のは半分だけ本当であり、あとは嘘だと感じた。

「道に迷ったか」

「迷うほど、行きたい場所もなくて」

「昔はな、行くべき場所ってのが、はっきりしていた」と老人は言った。「漁に出る、家を建てる、子どもを育てる。全部、案内板に書いてある矢印みたいなもんだ」

老人は海を見たまま続けた。

「でも、板に書かれたものは、いつか薄れて読めなくなる。板そのものだって、いつ壊れるか分からん。特に、こんな海辺ではな」

「海辺でなくたって、壊れるときは壊れます」

私は答えた。日が傾き、海がだんだん銅色に染まっていく。もうじき、何も見えなくなる。案内板も、そこに書かれた矢印も。老人は釣り竿を畳み、「帰るか」と呟いた。

「どこへですか?」家に決まってるじゃないかと思いつつ、訊いてしまった。しかし、老人は笑って、違う答えを出した。「いきたい場所へ」そして、桟橋の先へ歩き出した。もちろん、そこには水面が広がっているだけのはずだが、いつの間にか霧が出ていて、私が座っている辺りまでモワと広がっていたので、実は道があったのかもしれない。いずれにせよ、私は来た道を戻って、桟橋から離れた。

再びさっきの分かれ道に戻ってくる頃には、空は黒くなっていた。そして、矢印鳥はまだそこにいた。しかし、いまやその嘴は山へ続く道を指していた。友人の言葉を思い出す。「矢印鳥が指すとおりに歩いていけば、目的地に着いちゃうんだよねー」友人には、目的地があった。目的地というものは、誰にとっても同じ場所にある。だから、矢印鳥がいなくたって、案内板さえ無くたって、迷うことはない。長いか短いかだけで、いつかは、そこに辿り着く。

では、目的地がないときは?方向という概念を失った人間に対しても、矢印鳥は、道を指し示す。もっと奥へ、先の見えないその先へ。足が竦んでも、頭が拒んでも。

いま、矢印鳥に導かれているのは、身体なんかじゃない。そう理解した瞬間、身体は驚くほど軽く、前に進みやすくなった。行きたい場所ではなく、いきたい場所へ。迷うことなど、ありはしなかった。

 

※設定はNatuXa、構成はChatGPT、文章は半々くらい。タイトルの読み方は「やじるしとり」。