セミリタイアするまで非正規

正社員になれないことが分かった三十代。労働者のままでは死にかねないので、非正規のままセミリタイアを目指している、色んな意味で駄目なヤツ。

『杜子春』 あなたにとって「人間らしい、正直な暮し」とは何ですか?

※小説の感想文なので、ネタばれ注意

 

www.aozora.gr.jp

 

著者:芥川龍之介

執筆年:1920年、児童雑誌『赤い鳥』に掲載。短いし子供向けなのでサラッと読める。

 

あらすじと重要ワード

文無しぼっちの青年の杜子春が、謎の老人のアドバイスで自分の影の頭の部分を掘ると黄金を手に入れる。その黄金で友人たちと贅沢に暮らすが、3年経って金が尽き贅沢が出来なくなると友人も離れていき、元通りの文無しに。

すると再び老人が現れ、今度は自分の影の胸の部分を掘ると黄金が。再び友人たちと贅沢に暮らすも、3年経つと文無しぼっちに。

すると三度老人が現れ、またまた影のお腹の部分を掘るよう言いかけるが、杜子春はそれを遮り、代わりに老人の弟子にしてくれるよう頼む。老人の正体は、鉄冠子(てっかんし)という仙人であった。鉄冠子は峨眉山(がびさん)へ杜子春を連れて行き、何があっても喋るなと釘を刺して去っていく。

杜子春を数々の幻影が襲うが、彼はじっと口をつぐんで耐え続ける。しかし、地獄で畜生道に落とされた両親が骨身打ち砕かれる仕打ちに耐えかね、「お母さん」と叫んでしまう。

結果、杜子春は仙人になれなかったが後悔はしていなかった。「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」と約束する杜子春に、鉄冠子は泰山(たいざん)にある家、畑、花が見頃な桃の木を与えて、杜子春の前から永遠に去っていく。

 

 

杜子春にとっての黄金

一見すると「金の切れ目は縁の切れ目」を教訓にしたような童話に見えるけれど、恐らくそんな単純な内容ではない。杜子春は最終的に「人間らしい、正直な暮し」を誓っているが、それは最初に出てきた黄金の価値を貶めるものではない。

そもそも、黄金は杜子春の影から掘られたものだ。しかも頭は脳(=思想)、胸には心臓(=こころ)がある通り、どちらも重要な人間の一部だ。人間が生きるために身体が必要なのと同じように、黄金も必要なもの。しかし、悪の思想やこころで行動する人間がいるように、黄金だって使い方を間違えれば悪い結果を招いてしまう。その結果が、杜子春の以下のセリフだ。

「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」

ちなみに杜子春は黄金を何に使ったかと言うと、美女をはべらせ酒池肉林のテンプレ通り(作中表現を借りると「玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮し」)に散財しており、もちろんその間はニート。なんか他人や黄金のせいにしてるけど、ただの自業自得である。黄金自体には「玄宗皇帝にも負けない位」の素晴らしい価値があるのに、使い方が悪かったのだ。文無しぼっちになるのも仕方ないね。

最終的に仙人の試練に失敗した杜子春は、鉄冠子の「大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いいと思うな」という問いに対して「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」と答えている。鉄冠子は黄金ネタを引っ張るが、杜子春は黄金については否定も肯定もしていない。大金持になりたいわけではないが、人間にとって身体が必要なように黄金が無くても生活することはできないし、杜子春はその解決策をまだ見つけていないからだ。

そんな杜子春に対して、鉄冠子は家と畑を与える。雨風をしのげるし、畑があれば働いて財産を築くことも出来る、まさに健康で文化的な最低限度の生活というわけ。当時の価値観はよく分からないが、一般的に見ても宿無しの人間にとっては立派な財産であることは間違いない。私が欲しいくらいだ。たしかに資本主義的価値で考えれば、杜子春が最初に得た黄金とは比較にならない。しかし、「人間らしい、正直な暮し」を誓った彼にとっては、人間らしく生活できるだけの質素な量の黄金は、正直を踏み外しかねない量の黄金よりもずっと価値があったのだろう。何より、杜子春自信がかけがえのない「黄金」であり、もらった家にはきれいな花を咲かせる桃の木まであるのだ。

 

 

正直な人間とは

杜子春は「人間は皆薄情です」とか抜かしているが、彼だって最初は似たようなものだ。カネがあれば使い倒し、人間が信用できないとなると人外の仙人にホレて安易に弟子入りを申し入れ、薄情さではその他の一般人と大差ないように見える。人間については、最初から最後まで正直な人しか登場していないのが本作品です。

一般的に人間には様々な種類の情があり、その情に従って行動する正直な生き物である。本作はそんな人間の対になる存在として仙人を登場させている。仙人になる条件の一つが情の喪失であることは、杜子春が受けた畜生両親鞭打ちの試練からも想像できる。ここで両親を見殺す「人でなし」になれなければ、仙人たる資格なしというわけだ。そのことに気が付いたからこそ、杜子春は仙人テストに失敗しても落ち込まず、むしろ「反って嬉しい」「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」と考えたのである。

彼は人間として正直に生きることを誓うのだが、それは情に従うということだ。それでは冒頭で杜子春を見捨てた薄情な人々や、そんな人々を罵っていた頃の杜子春と同様、正直に生きるということだろうか? 読んでもらえば分かるが、勿論そんな描かれ方はしていない。確かに薄情な行動も正直さの一つである。しかし杜子春は仙人のテストで、仙人になりたいという言葉が嘘ではないことを証明しかけていたのに、最後の最後に人間として母親への愛情を選ぶという正直さを見せた。杜子春は、正直に生きても立派な人間に成長できる素質があったのだ。だからこそ、鉄冠子は家と畑をプレゼントして再スタートの準備を手伝ってくれたのだろう。いいなあ。

 

原作改変と、芥川龍之介の母親観

本作には元ネタがある。中国の同名の伝奇小説で、結末も異なる。原作では仙人の試練で地獄へ落ちた後、杜子春は女に転生して結婚して子供を作るが、転生後も仙人の言いつけ通り一言もしゃべらなかったため、夫が怒って子供を殺してしまう。そこで悲鳴を上げて現実に戻され、黙ってりゃ仙人になれたのに、と仙人に言われるお話らしい。地獄に落とされた挙句に悪口まで言われるなんて、踏んだり蹴ったりである。

道教が人気だった(原作が書かれたと思われる)唐の時代ならいざ知らず、現代の価値観からすると、自分の子供が殺されて泣き声一つ立てちゃいけないくらいなら、仙人なんか御免ですというのが一般的だろう。芥川龍之介も同じことを考えていたのか、本作のような結末に改変されている。ただ、彼の場合は実の母親ではなく義理の両親に育てられていることが大いに関係していると思われるが、そこまでは調べていないので気になる方は青空文庫で関係ありそうな作品や自伝を読んでみてください。とりあえず、芥川龍之介の『杜子春』は原作とは結末が全く違っており、原作の終わり方は現代ウケするものではない、ということで。

 

宗教的世界観

作中で頻繁に登場する「3」という数字は、仏教では聖なる数字とされている。黄金の力も三年間しか持続していなかった。仏の顔も三度というが、杜子春が三回目の黄金を使ってしまったら、一体どうなっていたのだろうか。あらすじでは触れていないが、仙人の試練も「3」が意識されている。

杜子春が連れて行かれる峨眉山も仏教の聖地の一つ。雲海がとても綺麗な、神秘的な場所らしい。

一方で泰山は道教の聖地の一つなので、仙人である鉄冠子の家があるのも納得。桃の花の魔除け効果も、道教からきているらしい。…ということは、鉄冠子は杜子春がいずれ仙人になることを期待しているのだろうか? 鉄冠子は杜子春に対して「(地獄で)もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。」とトンでもないネタばれをしてくるが、それは文字通りの意味ではなく、人間としての死=仙人としての生、という意味だったのかもしれない。本当に殺していたら、そもそも鉄冠子さんはどうやって仙人になったの?ってなるし。もしかしたら、割と本気で仲間にしたかったのかもしれない、という妄想。

 

ちなみに、現代の峨眉山と泰山は観光地になっている。

www.travel.co.jp

www.travelbook.co.jp

 

 

 

まとめ

「正直に生きましょう」に「人間らしく」という前フリを加えるだけで、よくある道徳的説教を十人十色の哲学に変えるという発想は、小説家ならではの見事な言葉選びであり、お題としても子供向けにピッタリな作品になっている。児童が読むには難しいと思うが。

NatuXaはとりあえず、「仕事したくない」という人間らしい気持ちに正直になって、これからもセミリタイアに向けて励んでいこうと思った。

鉄冠子さん実は仙人仲間欲しかった説について、専門家からアドバイスが欲しい。

 

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