セミリタイアするまで非正規

正社員になれないことが分かった三十代。労働者のままでは死にかねないので、非正規のままセミリタイアを目指している、色んな意味で駄目なヤツ。

仏教聖典に出てくる「仏の世界」を妄想する

 最近は休日に、仏教聖典を要約しています。仏教の修業(もともとは販促活動?)の一つである「写経」のようなものだと思いますが、ただ書き写すだけだと退屈なので少し頭を働かせるようにしています。短くすれば、何度も読み返しやすいしね。

 

 さっき要約した箇所に、仏の世界について書かれていたんですよ。私の要約になってしまいますが、だいたいこんな描写です。

 

 その国は清く安らかで、悩みを離れてさとりの楽しみが満ちあふれ、着物も食物もあらゆる美しいものも心の思うままに現れる。

 快い風がおもむろに吹き起こって、宝の木々をわたると教えの声が四方に流れて聞くものの心の垢を取り去っている。

 さまざまな色の蓮の花が咲きにおい、花ごとにはかり知れない花びらがあり、花びらごとの色の光が輝き、光はそれぞれ仏の智慧の教えを説いて、聞く人びとを仏の道に安らわせている。

 

 要約しててフと疑問に思ったのですが、この描写って細かく書かれているようで抽象的で如何様にも想像できるじゃないですか。じゃあ、これを読んだ人たちは、仏の世界やその住人についてどんな想像をするんでしょうか?

 私はこの文章を読むのは初めてじゃないんですけど、今まではこんな想像でした。

 

・着物 → きれいで神秘的でヒラヒラした薄着

・食物 → 好きなものなら何でも

・宝の木々 → 文字通り、キラキラと綺麗に光り輝く林(森ではない)

・蓮の花 → リラックス効果のある香り、リラックス効果のある色、リラックス効果のある光

 

 大体、こんなかんじ。特に蓮の花は、いかにも疲労がたまっている労働者の願望ってかんじですね(笑)。

 

 でも、この仏の国に入るには、執着を捨てて諸行無常をさとり、えーとまだなんかあったかもしれないけど、とにかく世俗の人間とは全く異なる考え方に至らないと駄目らしいんです。

 で、そんな大いなるマインドチェンジを達成した人が、現世の食べものとかヒラヒラしたお着物を欲しがったり、宝石ショップや美術商の目利きバイヤーと同じものに美しさを感じたり、蓮の花に癒されたくなるほど疲労困憊することは、よく考えたらありえ無いよね、という結論に至ったわけです。

 

 だから、着物や食べものは何でもと言っても、住人たちは質素なものを愛用しているんでしょうね。意外とグンゼみたいなのが喜ばれているのかもしれません(笑)。

「あらゆる美しいもの」についても、我々の美的感覚とは全く異なるものに美しさを感じるのでしょうし、我々には見ることすらできない概念的なモノが、あちらでは物質として存在できる可能性すらあり得ます。

蓮の花についても、香り・色・光とありますが、我々の世界で認識されるそれらとは、全く異質なものかもしれません。もっと言えば、蓮の花という分類自体が、我々の世界でも通用するよう便宜的に使われているもので、あちらの世界の「花」は全く想像もつかないような存在なのかもしれません。

 一体、仏の世界を最初に想像した人は、どんなことを考えていたんでしょうか。とてもワクワクします。私も行けるといいな~。

 

 ただ、風が吹いて木々がそよぐ度に教えの声が四方に流れる、というのはキツイですね。私は音嫌悪症なものですから、自然音は自然音だけで聞きたいものです、いくら有難いお言葉だとしても。声と言っても肉声ではなくテレパシーみたいなものなんでしょうが、それでもなあ...

 まあ、きっと仏の国にはそういう人向けの空間も用意されているんでしょうね。それとも、感覚過敏くらいは乗り越えないと仏の国には住めないんでしょうか。

 そこまでは仏教聖典にも書かれてないんだよなあ、昔は感覚過敏なんて無かったのかなあ...