セミリタイアするまで非正規

正社員になれないことが分かった三十代。労働者のままでは死にかねないので、非正規のままセミリタイアを目指している、色んな意味で駄目なヤツ。

『養生訓』江戸時代の本草学者が語る、(一部)令和時代にも通用する健康指南書

出版:1712年(今回読んだのは2020年に中公文庫から出版された翻訳版)

著者:貝原 益軒(かいばら えきけん) ― 福岡藩の本草学者(主に中国の医学に精通する学者)および儒学者。

 

概要

著者の貝原益軒は小さい頃から病弱だったため、頑張って勉強して偉くなり、現代人に負けず劣らず84歳まで長生きした。70歳で引退して執筆家になり、『養生訓』を書いたのが82歳なので、そこらへんの現代的高齢者よりも達者な人生で、じゃあどうやって健康に気を使っているのか?という考えや実践方法をまとめたのが本作。本職の本草学が中国の医学に関する学問なので、作中にも中国の書物や中国人の名前がたくさん登場するのが特徴。

Wikipedia の『養生訓』のページに、原文を掲載しているサイトのリンクが貼ってあるので、わざわざ買ったり借りたりしなくても読める。

 

健康に生きるためのキーワード

養生の術は、まず自分のからだをそこなう物を遠ざけることである。からだをそこなう物は、内欲と外邪である。内欲というのは、飲食の欲、好色の欲、眠りの欲、しゃべりまくりたい欲と、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情の欲のこと。外邪とは天の四気である。風・寒・暑・湿のことである。内欲をこらえて少なくし、外邪を恐れて防ぐのである。 

 これが本作の最初の方に書かれており、「内欲をこらえ」ることと「外邪を恐れ」、「養生」を実践する方法を伝授することが、本作の基本となる。これを一言で現すと、

健康を保って養生するのに、ただ一字大切なことがある。(中略)それは畏という字である。畏れることは身を守る心法である。(中略)畏れると慎みが生まれる。

なのだそう。現代風に分かりやすく言うと、「食べ過ぎるな、浮つくな、惰眠を貪るな、何でもかんでも喋るな、常に平静を保て、身体に悪いことをするな」ということになる。もっと分かりやすく言うと、「インスタ映え飯やら、恋活やら、休日の二度寝やら、ツイッターやら、エモいやらに現(うつつ)を抜かして、不自然な環境や食べもので身体を痛めつけると、長生きできないよ」ということになる。実に現代ウケが悪い。

ただ、耐え忍ぶことを美徳とする古臭い人なのかというと、そういうわけでもない。

およそ人間には三つの楽しみがある。第一は道を行って、自分に間違いがなく、善を楽しむことである。第二に自分のからだに病気がなく気持ちよく楽しむことである。第三は長生きしてながく楽しむことである。富貴であっても、この三つの楽しみがないとほんとうの楽しみはない。 

 カネを持つことより、健康で長生きして楽しむことを重要視しており、その点はセミリタイア思考に近い。(「善」を行うべし、という条件付きではあるが…) それなりにお酒も飲んでいたようだし、結婚もしている。しかも奥さんが亡くなった翌年に、後を追うように亡くなったらしいので、ただの健康オタクでは無く、人生の楽しみ方をちゃんと知っている人だったのだと思う。

 

興味深いのは、寿命に関する考え方。

すべての人間の生まれつきの天寿は、たいていは長いものである。天寿の短く生れついた人間はまれである。(中略)養生の術を知らず、朝夕に元気をそこね、日夜精力をへらして、生まれつきの年を保てないで早死にするのが世間に多い。 

「すべての人間の生まれつきの天寿は、たいていは長いものである。」の真偽は置いといて、300年前に生きていながら、

人間のからだは百年を期限とする。 

 という人生観をもっていたことに驚く。医学の発達で寿命が伸びたとされている現代人ですら、一体何割の人間が「人生百年」を意識して、ましてや健康に気を使って、生きているのだろうか。貝原益軒からすると、300年前の人間も健康に悪いことが大好きだったようだが、それは現代でも変わらないし、インターネットの普及や消費活動の加速度を考えると、むしろ悪化しているともいえる。まあ、健康に気を使う人間も一緒に増えてるけどさ。さらに、こんなことも書いている。

人生は五十にならないと、血気がまだ安定しないで、知恵もまだ開けない。五十にならないで死ぬのを夭という。これもまた不幸短命といわねばならぬ。長生きすれば、楽しみ多く益が多い。(中略)学問が進んだり、知識が開けたりするのは、長生きしないとできない。

むしろ、長生きした方が人生が楽しいとまで言っている。(「益」のあることをする、という条件付きだが)夭折というと、普通は20~30代くらいを想像するだろうが、なんと50歳で死んでもまだまだ若い、というのだ。これをわざわざ本に書くということは、300年前の人々も「人生は若いうちが楽しい、年を取ればとるほどつまらなくなる」という考えが主流だったのだろう。現代と同じだ。年を取っても楽しむために、過剰な欲を抑えて、健康に気を付けるという考えは、医療が発達して寿命が伸びれば伸びるほど、重要になる人生観だと思う。「もう○○歳だから、これができない、あれをするべきじゃない、若い頃にもっと…」というネガティブ発言ほど、つまらないものはない。このフレーズを使っていいのは「もう30歳だから結婚や正社員就職なんて無理なんです…(だから恋人&正社員至上主義を押し付けるな)」という風に、自分と相容れない思想の押し付けから身を守るときだけです。

 

 時間がない人のための『養生訓』のようなもの

で、健康になるための具体的な方法だけれど、やはり300年前に書かれていたということもあって再現性が低い方法も多い。具体的な方法を知りたい人は、自分が気になる部分をつまみ読みするくらいで良いかもしれない。ネットでも拾えるし。

なので、個人的に面白かった記述を何個かピックアップしてみた。江戸時代の健康方法を再現するのは難しいが、考え方は令和の人間でも十分に共感できるものが多い。面白いなと思った人はぜひ本を手に取って読んでみてください、全部。

 

およそ朝は早く起きて、手と顔を洗い、髪を整え、朝の行事をすませ、食後にはまず腹を何度も撫でおろし、食気の循環をよくする。また京門(左のわきばら)のあたりを人さし指の内側でななめに何度も撫でるがよい[直腸に刺戟をあたえて便通をうながす意味であろう]。腰も撫でおろし、下部を静かにたたく。きつくたたいてはいけない。もし食気がとどこおったら、顔を上むけて三、四度食毒の気をはく[げっぷを出す意味か]。朝夕の食後にながく楽な姿勢で座っていてはいけない。横になって眠るようなことは、けっしてしてはならぬ。(中略)気がふさがって病気になり、たびかさなると命が短くなる。食後はいつも三百歩あるくことにするがよい。

腹を撫でるというのは、最近だと「腸マッサージ」として主に便秘体質者の間で流行っている。ゲップが良いってのは初耳だけど。ただ、食後にじっとしないで歩くのってどうなんだろう?私は食後に動きすぎると、お腹痛くなっちゃうけどなあ。

 

昼はけっして横になってはならぬ。(中略)もしひどく疲れたらうしろに寄りかかって眠るがよい。もし横になるのだったら、(中略)ながく眠ったら人によびさましてもらうがよい。 

 昼間に横になると、夜は眠れないし身体もダルくなるから、私も好きじゃない。仕事中に寝る場合も、15分くらいで起きる方がよい、って言われてるしね。

 

山の中でくらしている人は多く長命である。(中略)山の中は寒くて、からだの元気をとじかためて内に保存してもらさない。だから命が長い。暖かい地方は元気がもれて内に保存することが少ないので命が短い。また山の中の人は交際も少なく、静かで元気をへらさず。万事ものが少なく不自由だから、自然と欲も少ない。ことに魚類がめったになく、肉を腹いっぱい食べることがない。これが山中の人の命の長い理由である。 

むしろ寒い地域ほど短命な印象があるけどね。人が少ないとストレスが溜まらず、長生きできるってのはわかる。「魚類がめったになく、肉を腹いっぱい食べることがない。」とあるのは、江戸時代には(獣の)肉食はまだ普及してなかったからか。

 

およそ薬・鍼・灸・導引・按摩・温泉療法の六つは、その病気と治療とがうまく合うかどうかをよく選んでやるがよい。適応症を知らないでかってに用いると、間違って害になることが多い。 

 薬に頼りすぎるな、ってのは分かるけど、現代では健康に良いとされる鍼灸や温泉も、使い方を間違えると毒になるという。鍼灸は行ったことないけど、温泉は合わないと肌の状態が悪化することは本当。アトピーの症状が出たときに、強酸性泉である草津温泉に行ったのだけど、逆に荒れたことがあるから。

 

すべてのことは、十のうち十までよくなろうとすると、心の負担になって楽しみがない。不幸もここからおこる。また他人が自分にとって十のうち十までよくあってほしいと思うと、他人の不足を怒りとがめるから、心の負担となる。また日用の飲食・衣服・器物・住宅・草木などもみな華美を好んではいけない。多少ともよければ間に合う。 

 これは色んな人に刺さるんじゃないかなあ。「何でも完璧を求めすぎると病んで不幸になるよ」ってこと。「他人に求めすぎるな」ってのはアドラー心理学でも言われている、ということを『嫌われる勇気』で知った。

 

古人がいうのに、酒は微酔(ほろよい)にかぎり、花は半開きに見るのがよいと。 

 時と場合によるんじゃないですかね。

 

大風雨と激しい雷の時は、天の威を畏れて夜でもかならず起きて、きちんと衣服をきて座っていないといけない。 

 たまに迷信まがいなことも言ってるんだけど、こういうのに限って根拠が書かれてないから、もう迷信にしか見えないんだよね。

 

古人は詠歌や舞踊をして血脈を養った。詠歌というのは歌を歌うのだし、舞踊というのは手で舞い足で踏むのである。みな心を和らげ、からだを動かし、気を循環させてからだを養う。養生の道である。今日、導引や按摩で気を循環させるのと同じだ。 

 要するにカラオケとダンスは、氣功やマッサージと同じ効果があるってことか。

 

ご飯のあとでまた茶菓子といって餅やだんごなどを食べたり、あるいは後段といって麺類などを食べると、腹いっぱいになって気を塞ぎ、食のために害される。 

 「後段」というのは、お客様のために御馳走の〆の御馳走を出す江戸時代の習慣だそう。貝原益軒がビュッフェスタイルなんて見たら卒倒するかもね。

 

飲みものや食べもののことばかりいっている人間は人からいやしまれる。 

 すいません。

 

焼酎は大毒がある。 

 そいつぁ、ビックリだ!

 

四十歳以後は早くめがねをかけて視力を大事にするがよい。国産の水晶でつくったのがよい。拭く時は絹で両指にはさんで拭くのがよい。また羅紗で拭いてもよい。ガラス製のはこわれやすくて、水晶製におとる。 

 ここの驚きポイントは、昔の眼鏡は国産の水晶で出来ていた、という点です。

 

温泉のあるところへ行けない人が、遠い所から汲んできてもらって入浴している。これを汲湯(くみゆ)というが、寒い月は水の性質がかわらないから、これに入ると多少の益はあろうか。しかし温泉の地からわきだした温熱の気を失って、陽気が消えてなくなった腐った水なのだから、清水を新たに汲んだのより、性はおとっているのでないかという人もある。

温泉のお取り寄せは、昔からある湯治方法だったみたい。現代は輸送技術が発達してるから、水が腐ることはないと思うけど、やっぱり現地で入るのが一番だよね。

 

学問があって、医学にくわしく、医術に熱心で、たくさんの病気をみて、その経過を知っているのは良医である。医者になって医学を好まず、医道に志がなく、また医書を多く読まず、読んでもじっくり考えず、学理に通じなかったり、または医書を読んでも旧説にこだわって、臨機応変の処置ができなかったりするのは、医者でなくて職人である。俗医のなかには、利口で医学と治療とは別だとし、学問は病気をなおすのに不用だといって、自分の無学を弁護し、人情になれ、世事に熟し、権力者や貴族の家にへつらって近づき、虚名を得て、運よく世にもてはやされているものが多い。これを名づけて福医とも時医ともいう。 

 現代人に対する皮肉か、ってくらい真っ直ぐなお言葉。

 

いまの世間では、年とって子に養われている人が、若い時より怒りっぽくなり、欲もふかくなって、子を責め人をとがめて、晩年の節操を保たず、心をみだすのが多い。抑制して怒りと欲をこらえ、晩年の節操を保ち、ものごとに寛容で、子の不孝を責めず、つねに楽しんで残った年を送るがよい。(中略)子としては、このことを念頭において、父母が怒らぬように、ふだんから気をくばって、慎むべきである。

認知症って、昔からあったんだねえ。親孝行も大事だし、最期までなるべく健康な老人でいることも大事だよね。

 

老後は、若い時の十倍の早さで時が過ぎていく。(中略)むだに日を暮してはいけない。

グハッ ( ゚∀゚)・∵. ...

 

 刺されたので、今日はここまで。

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