セミリタイアするまで非正規

正社員になれないことが分かった三十代。労働者のままでは死にかねないので、非正規のままセミリタイアを目指している、色んな意味で駄目なヤツ。

上高地旅行 明神岳の麓に宿泊し、西穂高に登って、平湯温泉

 7月末日あたりに、長野県の上高地へ旅行した。

 

 1日目は、8時15分に新宿バスタから出発。

 4時間以上のバス旅。途中で立ち寄った諏訪湖SAの風景。

 今回の旅行では、新宿から上高地バスターミナルへ直接行く便ではなく(満員で予約取れなかった)、岐阜県平湯温泉で別のバスに乗り換えて上高地へ。

 

 河童橋。色んな山が見える。名前も教えてもらったんだけど、慣れないとどれが何だか… 正面に見えるのは吊尾根というらしい。川の跡のようなものが見える。山頂付近には、まだ雪が残っていた。

 現在の河童橋は、平成9年に架けられたもので5代目。1代目の誕生日は分かってないけど、最初は跳ね橋で、明治時代に吊り橋に変わった。芥川龍之介の『河童』の冒頭にも出てくる場所。でも、どうして「河童」と呼ばれるようになったのかは不詳。

 けっこう、分からないことが多い。

 

 橋の下を流れているのは、梓川。こんなに綺麗な水なので、河童がたくさんいたんだろうね、昔は。

 (上高地にしては)暑かったので川辺で遊んでいる人もいたけど、水はかなり冷たいので水泳はできない。

 

 河童のイラストが入った、わさびコロッケを食べた。

 

 1日目の宿泊地は、河童橋から1時間ほど歩いた明神池。

 梓川に架かる明神橋からの風景。雨が降るギリギリのタイミングで、宿に到着。

 

yamano-hidaya.com

 「山のひだや」さんに宿泊した。信州割で5,000円安くなった。(*´∀`*)

 2,000円のクーポンも付いてきたので、オリジナルTシャツを買った。

 

 明神岳を一望できる部屋から眺めた夕焼け。鳥の声、風の音。自然にとても近い。

 明神池や神社にも近いんだけど、残念ながら今回は行くタイミングが無かった。

 人工温泉と、山の幸&川魚の夕飯で疲れを取って、21時(!)に就寝。

 

 2日目は6時に宿を出発。

 明神橋の朝の景色。雨降りの後の快晴のためか、霧が出て神秘的な絶景。

 

 この日は登山を控えていたので、朝食は弁当に変更してもらった。ちくわ(下段左端の茶色いの)と、塩っ気たっぷりおにぎりが美味しかった。

 

 河童橋に戻ってきたので、今回は朝の焼岳を撮影。こちらも霧が出ていて素晴らしい風景。

 

 途中でお猿の家族を発見。カメラを向けても全く動じない。観光客慣れしている。

 可愛い子ザルはベンチを登ったり下りたりして遊び回り、親猿は片方が寝っ転がって毛づくろいをしてもらっていた。

 

 3~4時間かけて、西穂高岳を登る。道中はこんなかんじ。特に技術や装備は要らないけど、ある程度の体力と水は必要。

 

 たまに視界が開けると、周りの山々が見渡せる。向かいの山の山頂に近づいてくると、「ここまで頑張って登ってきたんだな~」と感慨深い。

 

 写真だと分かりづらいけど、半分くらいまで登ってくると、山の清水を補給できる場所がある。とっても冷たくて美味しい水だった。

 

www.nishiho.com

 

 そして、本日の宿泊地&目的地の西穂山荘に到着。

 断熱が良いのか、山荘の中は夜でもあまり冷えなかった。春や秋はもっと寒いんだろう。

 

 蜜蜂がいっぱいいた。

 

 昼食は、西穂山荘のラーメン。ラーメン自体はシンプルだけど、卵がちょっと甘い(?)不思議な味だった。

 

 宿泊者の夕食と朝食は、こんなかんじ。夕食は夕方5時で、朝食は朝の5時30分。山の一日は早い。

 

 夕方の6~7時にかけて、とってもきれいな夕焼けになった。橙色に輝く雲や、雲海に沈みゆく山々を眺める。

 そして、夜は一面の星空。1回だけ流れ星も見えたし、人工衛星も浮遊していた。

 

 そして、これは3日目の朝。山頂からの風景も素敵だった。

 

 (赤い屋根の建物が、2日目に宿泊した西穂山荘)

 西穂山荘からは、独標という岩場をよじ登って西穂高岳の山頂を目指すルートがあるんだけれど、私は途中(写真の場所)で断念。体力・技術的には子供でも登れるらしいんだけど… 視界を遮るものが無いので怖い!高所恐怖症には無理!

 ただ、山頂まで行かず、途中の丸山でも絶景だったらしいので、そこまでは何とか登りたかったかなあ。でも怖いもんは怖い。

 

 帰りは新穂高ロープウェイで下山。平湯温泉で昼食を食べたり温泉に入って、新宿行きのバスを待っていた。

 写真は、黄身が固くて白身が柔らかい「はんたい玉子」という温泉卵。

 

 

 

 2日目の夕焼けと星空を眺めているとき、宿泊地で迎える朝の清浄な空気と景色に包まれているとき、胸がジンワリとした。

 感動したとか、泣きそうとか、そういう表現では物足りない。生きてて良かった、というのとも少し違う。

 あれは、安心感、だったのだろうか? 私がここに居てもいい、生きててもいい、という実感。社会や人間の役に立っていない、無価値な自分にも、自然は変わらぬ姿を見せてくれた。寛容で無関心で、語りかけてくる価値観は、ただ一つ。「私にとって、人間なぞ何でもない。いたければ、いつまでもいなさい。余所に行きたければ、いつでも去りなさい」この無常感が、非常に心地よい。

 

 やっぱり、私は労働者に戻りたくない。

 労働は、無常からかけ離れた世界だ。もう、戻りたくない。

 

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「人生の意義」を考える無職

toyokeizai.net

 

 youtubeひろゆき切り抜き動画をたまに見る。記事中にもあるけど、「『なぜそう考えたのか』という理由や根拠を、できるだけ説明」してくれるので、聞きやすくて面白い。

 

 この記事は「人生の意義は考えなくていい」という、無職にピッタリ(笑)のテーマである。まずは、自己肯定感の話から始まる。

自己肯定感が低かったり、自分を好きになれない理由として「自信を持てることが何もないから」を挙げる人がいます。

 それについては、

自信に根拠なんて求めたりしないほうがよいと思いますよ。崩れたときにキツいです。

 と、結ばれているのだが、その理由として、

たとえば、「自分は勉強ができる」と自信を持った人がさらに努力して、東京大学に合格したとします。でも、入学してみたら、周りは自分と同じか、もっと勉強ができる人だらけです。

若さにこだわっているような人は、やがてその自信の根拠を失っていくでしょう。だって、毎年どころか毎日、歳を取っていくのですから。

 

 と、ある。「自信」は強力な武器だが、ある条件下では極端に脆くなるという弱点がある。ひろゆき氏は、それを「崩れたときにキツい」と指摘しているのだろう。

 「自信」が脆くなる条件というのは、他人の「自信」と比較して「根拠なんて求めたり」することである。まさに記事中にある、東大連中と地頭の出来具合を比較する、年下と年齢を比較する、といった行為だ。

 これは私自身もクセになっていて、「自己肯定感が低かったり、自分を好きになれない理由として『自信を持てることが何もないから』」も、まさにその通りだったりする。学生の頃から馬鹿にされ続け、それでも愚直に勉強し続けたら「お前はカネにならない」と社会から閉め出され、息をするだけの奴隷として納税義務を果たしながら存在し続ける。と、いう人生なので「自信を持てること」なんて本当になーんにもないし、当然そのせいで自己肯定感も低いと思っていた。

 しかし、どうして「自信」は「根拠なんて求めたり」すると脆くなってしまうのだろうか? 実は無職になって心身に余裕が出てきたのか、自己肯定感やその元となる「自信」について、根本的に認識を誤っていたのでは?と考えるようになっている。(そのタイミングで、このひろゆき氏の記事を目にしたというワケ)

 己肯定感」も「自信」も、あくまで主観的なものである。だから、自分一人で独占するのが正しい使い方で、そこに他者を介在(させて「根拠なんて求めたり」)するのは間違った使い方ではないか。間違った使い方をするから、自己肯定感や「自信」が本来の力を発揮できず使い物にならないのではないか。

 これが、自己肯定感が持てず苦悩し続けている私の、現時点の考えである。

 

 

 そして、これも自己肯定感が低い人あるあるだと思うけど、社会に貢献している他者(=自分以外のほぼ全ての人間)への強烈な劣等感から、自分の生の意味や命の価値に疑問が生じ、このまま生きるべきか今すぐ死ぬべきかが分からなくなって、苦しんだりする。

 これについても、ひろゆき氏は、

この世にある生死のすべてに意味はありません。(中略)だから、人生の価値や意義とか、考えなくてもいいんじゃないでしょうか。

 と言い切っている。ただ、その根拠が「人類に貢献することと、その人自身の幸せは、まったくの別もの」というものなので(記事中ではスティーヴン・ホーキング博士の例を挙げている)、「その人自身の幸せ」が「人類に貢献すること」(=人生に「価値や意義」を持たせること)である人には通用しないが。

 だけど、先ほども書いたように私自身は、無職になってから、他者を介在せずもっと主観的に生きて良いのではないかと感じ始めている。

 (自ら望んでそうなった)無職にとっての「その人自身の幸せ」とは、「人類に貢献する」有職者の真似をすることなのだろうか?それは結局、無職という自分の「人生の価値や意義」を否定し、自信の喪失と自己肯定感の破壊へと至るのではないだろうか?

 もし、「人類に貢献する」(=「人生の価値や意義」)と「その人自身の幸せ」が同一ではないと分かっているのなら、割り切って自分の事だけをトコトン考えるという生き方もある。そうしてトコトン主観的に生きることで、「自己肯定感」や「自信」も生まれるのではないか。いくら割り切ると言っても、他者の不幸になることをしてはいけないが、その上で「自己肯定感」と「自信」を持ち「その人自身の幸せ」を理解して生きていれば、少なくとも「人類」に迷惑をかけることにはならない。それで十分じゃないだろうか。

 

自分にとって楽しいことを5個ぐらい見つけて、毎日それをやっていると、満足感がありますよ。 すごい実績なんてなくても、人って結構簡単に幸せになれるのです。

 

 確かに無職になってから毎日楽しいけど、言われてみれば「楽しいことを5個」もはやってない。実際に毎日5個も違うことをやってると大変なことになりそうだけど(笑)、毎日できるような「自分にとって楽しいこと」を5個挙げられるという人生こそ、私にとって意義のあるものなのかもしれない。

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2022年7月の出費状況と、今月の目標

 先月の収支は、75,068円の赤字だった。

 

2022年7月の支出

 

※貯金の内訳:積立NISA

----------------------------------------

計:98,808円

 

2022年7月の収入

----------------------------------------

計:23,740円

 

やっぱり旅費は高い

 7月は親戚と上高地へ登山に行ったので、その旅費が5万円ほど。場所柄、食事をつけざるを得なかったのと、足代が高かった。旅行は大好きなんだけど、収入が無いときついね~。

 

 

FXのデイトレは諦めます

 引き続きFXの収益化に勤しんでいる。というか、今月もほぼこれしかしてなかった。

 先月はロット数を上げたいなー、とか言ってたけど、ご覧の通り今月は稼げなかったので、最小ロット数のままで終わった。

 月末くらいで、ようーーやくトレードの手法が固まってきて、同時にデイトレは諦めることとなった。何とか1時間足以上でデイトレできないかと試行錯誤の四苦八苦したけど、デイトレしたいなら分足以下も見ないと厳しいね。スキャルなんてもってのほか。

 なんで1時間足以上に拘ってるかというと、分足以下になるとチャートに張り付かないといけないので、メンタル的にキツいから。短時間足で価格がピョンピョン動くたびに心臓バクバクさせるより、長時間足でエントリーして放置して寝てる方が気楽。

 というわけで、今月からはスイングトレードへ移行します。スイングになるとトレード回数が激減するので、上達するのが遅くならないか不安だけど、デイトレは難しいから仕方ない(;´Д`)

 

先月やったこと

 

 

今月の目標

  • 体調を崩さない
  • FXトレードで負け越さない
  • 合蹠(がっせき)のポーズができるようになる
  • 体脂肪率20%以下、基礎代謝1100kcal超
  • 1日に1回はお通じがくるように気を付ける

 あ、また合蹠(がっせき)の練習を全然やってなかった(笑)なんか忘れちゃうんだよなー。

 一番の目標は、引き続き体調を崩さない、で。次点でFXの収益化。というより、FXを収益化するためにも体調を崩さない、といったところか。

 ブログの更新頻度も落ちてるけど、今の私はFXを収益化させないと次のステップに進めない。もうブログランキングとかどうでもいいから(笑)、何とかトレードだけで食ってけるように頑張るぞー!

 だって、だって、もう二度と、あの地獄の非正規雇われに戻りたくないんだもん…(´;ω;`)

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『ピグマリオン』 - 「中産階級」は勝ち組なのか、奴隷なのか?

 kindle unlimited で、バーナード・ショーの『ピグマリオン』を読んだ。

 脚本形式なので、登場人物同士のリズミカルでユーモアある掛け合いが面白い。

 

 言語学者が(実験感覚で)下町方言丸出しの礼儀の「れ」の字も知らない花売り娘を侯爵夫人として社交パーティーに参加させる、というのがあらすじ。終盤まではコメディーのようなかんじで進む。

 しかし、最終章で立派に社交デビュー(?)した花売り娘と言語学者がケンカするのだけれど、その一言一言が、当時のイギリス階級社会風刺のオンパレードになっている。

 

 例えば、花売り娘の言葉。

わたしは花は売ってたけど、自分の身を売ったりはしなかった。でも、あなたにレディにしてもらった今、他に売れるものがあるかしら? あのまま拾わないでほっといてくれればよかったのに。

 

ああ!また花売り娘に戻れたら!あなたからも父親からも自立して、誰の世話にもならずにやって行けるのに!どうしてわたしから独りでやっていく術を奪ったの?どうしてそれをわたし、捨てちゃったの?これじゃ奴隷も同じだわ、いくら綺麗な服を着ていても。

 

 花売り娘は、もともと下町で花を売りながら、ボロ家で貧しく生活していた。貧乏でも彼女は自分の力で生活できていたし、決して人生を悲観してはいなかったし、いつかちゃんとした花屋で働く、という夢も持っていた。

 その全てが、言語学者の実験の成功をもって失われてしまった。何となく想像できると思うが、上流社会は個人の力で生きていける世界ではない。(例えば、宗教団体の力を借りている自民党とかw)花売り娘は不幸な貧乏生活から抜け出して、幸福で豊かな生活に…と見えるが、その上流社会で暮らすということは「自分の身を売ったり」して「奴隷も同じ」な、下町生活より貧しいとも言えるものだった(と、花売り娘は感じている)。

 なぜ上流社会が「奴隷も同じ」であるのかを、花売り娘の父親はこう説明している。

 

他人のために生きなきゃなんねえ、自分のためじゃなく。それが中産階級の道徳ってやつだ。

 

 ちなみに、言語学者も怒り狂う花売り娘を慰めるために、

 

どんな身分にさせられても、平然と生きていられる。(真面目に)その秘訣は、マナーがいいとか悪いとか、そういう作法の問題じゃなくて、どんな人間に対しても同じ態度でいられるってことなんだ。つまり、天国にいるかのごとく振る舞うってこと。なぜなら、そこには二等車も三等車もなく、すべての魂が等しく価値をもっているから。

 

 などと弁解している。この言語学者は

僕は、侯爵夫人を花売り娘のように扱う。

 と公言するほどで、実際にそういう場面も出てくるので、古い階級制度に囚われてない現代的思想の持ち主である、とも言える。

 ただ、この言語学者は上流社会の出身で、花売り娘のような下流社会で生きたことはない。彼が下町出身で、貧しくて言語学の勉強も出来ず、「すべての魂が等しく価値をもって」いない世界で自分一人の力で生きていくことを余儀なくされたときに、「天国にいるかのごとく振る舞う」なんてことが出来るのだろうか?少なくとも私は、この言語学者が言っても説得力を全く感じなかった。当時、『ピグマリオン』を読んだイギリス人がどう感じたのかは分からないけど。

 

 現代の日本に階級社会は存在しない(ことになっている)けれど、花売り娘の父親がいう「中産階級」は正社員や中小企業の経営者くらいに当てはまるだろう。そして、花売り娘の出身である下流社会は、非正規労働者である。そして、非正規労働者のうちワーキングプアやブラックバイトが(身分としての)奴隷に相当する。

 当時のイギリスでは階級制度としてハッキリ区別されていたこれらが、現代日本では「人間皆平等」の名の下に、自由意思で生活手段を選び自由意思によって労働する自由市民として一緒くたにされて「貧困なんてありませんよー、奴隷なんていませんよー」と嘯いているのだから、より問題は深刻化していると言えるかもしれない。

 この花売り娘が今の日本に生まれていたら、どんな働き方を選んでいたのだろうか?

 

 ちなみに、『ピグマリオン』は男性優位社会にも矢を当てていて、それ関連のセリフにも面白いものが多い。(ユーモアがある、という意味で、フェミニズム的に面白いかは分かりませんw)

 例えば、上流階級の恋人について話す元花売り娘の言葉。

 彼を、働かせたくないんです。わたしと違って育ちが育ちだから、労働にむいてなくて。だから、わたしが働きに出ます。

 羨ましい!自分もパートナーができたら、こんなこと言われてみたい!わたし女だけど!

フォークナーの『八月の光』を読んだ - 歴史に縛り付けられた人々の孤独、社会の混沌

 kindle unlimited で、光文社の古典新約文庫を読むのにハマっている。

 労働者時代も実用書はよく読んでいたが、小説を読む機会がめっきり減っていた。古典も殆ど読んでいないと思う。フと、急にこれらが読みたくなって目を通し始めたのだけれど、なかなか夢中になれる。

 知識を得るだけなら現代の歴史本や専門書でも別に良いんだけど、小説や古典の長所は、人間と疑似的に対話(しているような感覚を得ることが)できる点だ。「へぇ~、貴方の時代はそんなかんじだったんですねー」「どうして、その登場人物はそんなことになっちゃうかなー」みたいな(笑)。昔の実用書って、作者の感情が炸裂してるようなものも多いし。

 

 で、この『八月の光』という作品。フォークナーという作家の作品で、1932年にアメリカで出版された。ヨクナパトーファ群という架空のアメリカ地域を舞台にした、「ヨクナパトーファ・サーガ」の一つ。

 あちこちにキリスト教のモチーフが使われ、黒人奴隷制度が崩壊した直後のアメリカ南部を舞台にしている。退廃的な雰囲気が強い。

 登場人物も、自分が黒人なのか白人なのか分からず苦悩し続け最後には白人を殺して警官に射殺&去勢されるクリスマスという男に、南北戦争で活躍したお祖父さんの武勇伝をキリスト教の説教とごちゃまぜにして熱弁し続け妻が不倫&自殺して牧師の職を追われたハイタワーという老人に、これまたお父さんの代から黒人奴隷制度に反対し続けて白人社会から弾き出されたジョアナという女性、などなど。

 黒人の隷属やキリスト教で維持されていた古い秩序が、南北戦争や第一次世界大戦などで崩れ去って新しくより現代に近い秩序への過渡期に入りながら、それに取り残されていく人の孤独や街の混沌を描いている。

 人種の違いによるアイデンティティーの喪失や崩壊は、日本人には無い歴史である。だから、こういう小説を読んで想像するしかない。また、本作のキリスト教のような人間の生活基盤となっていた文化の消滅も、1989年の共産主義崩壊を最後に、少なくとも目立ったかたちでは起こっていないんじゃないだろうか?

 もし、現在進行中のロシア-ウクライナ衝突でロシアがウクライナを完全に占領したとき、「先進国」の文化となりつつある「戦争が無い日常」が崩壊したとなると、少なくとも我々日本人にとっては大きな転換点となる。戦争とは関係ない平和な日本人、というアイデンティティーが破壊され、(例えば)ロシアや中国を仮想敵とする日常が当たり前になったとき、絶対にその日常に馴染めず、「自分は本当に日本人なのだろうか?」と悩む人間が出てくるだろう。

 しかし、まだこれは妄想の段階である。今のところ、日本人が『八月の光』に登場するメイン・キャラクターと全く同じ苦悩を抱くことは非常に難しい。だから、本を読んで想像するしかないのだ。

 

 訳者さんの解説で当時の時代背景を理解して、やっと意味が分かったシーンもある。まだまだ不勉強だ。

『人間不平等起源論』を読んだ ― 「野生」が最も平等で幸福な人間の姿?

 フランスの哲学者ルソーの著作で、アカデミーが募集した「人々の間における不平等の起源は何であるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」を主題とする懸賞論文に投稿したもの。

 名前の通り、不平等の起源について書かれているんだけど、これが現代社会の風潮と逆行する内容で面白かった。

 

 隷属の鎖を作りだすのは、人間たちの相互の依存関係と、人間たちを結ぶ相互の欲求であることは、誰にでも分かることに違いない。ある人間を隷属させようとするならば、まずその人を他人なしでは生きてゆけない状態におく必要がある。自然状態ではこのようなことは起きないのだから、この状態では人間はあらゆる軛から自由であり、最も強い者の法も無力なのである。(p87)

 

 このように、ルソーは人間同士の繋がり(=社会)こそが、不平等を生みだしていると考えていた。(ここには書かれていないが、悪徳も同様にして生まれたとしている)人間が他者を必要とし欲するのは依存であり、隷属の始まりというわけ。現代だと、こうした感情は「絆」とか「繋がり」とか善いものとされているが、そんなものを求めるから不平等が無くならないんだよ、と。なかなか斬新である。

 

 面白い表現は、他にもある。

 

情念のうちでもっとも甘い感情である恋愛が、人間の血の犠牲を求める(p99)

 

この上なく惨めな奴隷状態を、平和と名づけている(p118)

 

 どちらも現代の、それこそテレビなんかで発言したら大バッシングを喰らいそうな悪口だ(笑)。でも、どっちも真実でもある。前者はドラマの鉄板ネタだし、後者は労働のことを言っている。

 

 ルソーは、人間が「野生」だった頃が、最も平等で幸福で最適な状態だったという。「野生」状態の人間は無知だが、無知ゆえに悪徳も存在せず、他者に依存せず一人で本能のままに生きることができた。

 

 しかし自由で、心が安らかで、身体の健康な「野生の」人間がどのような意味で「惨め」なのか、どうか説明してほしいのだ。

(中略)

 文明の生活と自然の生活のどちらが真の意味で「惨め」であるのか、判断してほしい。(p71)

 

 野生人はみずからのうちで生きている。社会で生きる人間は、つねにみずからの外で生きており、他人の評価によってしか生きることがない。(p137)

 

 それにしても、いくら平等だからって、文明が無い頃の人間が一番幸福だった!というのは乱暴な気もする。確かに、労働も欲望も争いも無かったのかもしれないけど、(ルソーの考えに基づけば)友人も家族も娯楽も存在せず、ただ狩って食って寝て繁殖するだけの人生ってことでしょ?

 …いや、そう感じてしまうのも「悪徳」なのかもしれない。そういう非「野生」的なものから得られる幸福は、まやかしなのかもしれない…

 

 ちなみに、ルソーは読書家ではあったものの、仕事が長続きしなかったり、人間不信になったり、軽犯罪を繰り返したりの人生で、なかなか立派な社会不適合者だ。結婚はしたけど、貧乏だったので子供は孤児院に送っていた(当時は珍しいことではなかったようだが)。

 だから、人間同士が集まるとロクなことにならない、という論が出てくるのも、まあ分からなくもないというか。

 現代社会では、「不幸なキミも働いて恋愛して子作りして社会と繋がれば万事解決!」な陽気なのか妖気なのか判断しづらい論調も目立つので、そういうのに辟易としている人には特にオススメできる。

一人で静かに暮らしたいなら、「地方移住」ではなく「お引越し」にしておこう

news.yahoo.co.jp

 

 山口県阿武町で今年の5月に、誤入金された4000万円以上の給付金をネットカジノで使い込んで逮捕された事件があった。事件内容もさることながら、この犯人がいわゆる地方移住者で、助成金の対象者であったことも注目されていた。

 記事には、ある地方自治体関係者の証言がある。

「このような住人を受け入れた自治体にも、一部責任があると思います。阿武町は田口容疑者を引き寄せてしまった」

 

 地方移住には興味があって、ちょこちょこと調べてはいた。

 ただ、私の狙いは「人間が少なく自然と人工物の比率が丁度良い場所で、労働に苦しむことなく、一人で静かに過ごしたい」ことであって、過疎地を応援しよう!が目的の地方移住とは違うなー、と何となく感じていた。なので、実家を出て地方と言われる場所で暮らすことになっても、地方移住ではなく、単なる引越しになるだろう。

 

 と思っていたけど、どうやらこの認識は正しかったようで、記事で取材を受けている"山口県周防大島町に住みながら全国の定住政策に取り組んでいるファイナンシャルプランナーの泉谷勝敏氏"も、地方移住政策についてこのように言及している。

「こは自治体側と移住者側のどちらにも言えますが、そもそも地方移住施策は誰のための政策かと言えば、言うまでもなく自治体と地元住民のためのもの。それを、移住者のためのものだと勘違いしている人が多いです」

 

「一部ではありますが、金銭的問題から都心に住めなくなり、地方に逃げてきたと思われる若者もいます。きっと人間関係に疲れているのでしょうが、集まりにまったく顔を出さないし、電話にも出ない。災害の復旧も一切手伝わない。田舎は都会で疲れた人間の受け入れ先ではないんです」

 

 もし私が地方に住むとしたら、2番目の「都会で疲れた人間」に当てはまるだろうが、やはり都会に馴染めず地方で静かに過ごしたいだけ、という人間は地方移住とは言えないようで、あくまで余所者扱いなのだろう。「受け入れ先ではない」と突っぱねるほどの辛辣さである。

 しかも、集まりに参加しなかったり、知らない人間からの電話に出ないだけで変人扱いだ。(災害被害に無関心なのは、意見が分かれると思うが)こうした風習は、干渉されたくない人間にとって非常に辛いものだ。だから若い子が出て行っちゃうんだろうなあ…

 

 ただ、「そもそも地方移住施策は誰のための政策かと言えば、言うまでもなく自治体と地元住民のためのもの」という言葉には違和感がある。自治体と地元住民のため、というのはモチロン重要なんだけど、移住者はそこに含まれない、という言い方だと、自治体と地元住民が余所者を仕方なく受け入れて"やっている"と捉えられないだろうか?

 同じそもそも論でいえば、若い人間が定着しなくて困っている自治体と地元住民側のSOSとして始めた政策なのだから、彼らと同じように移住者側にもメリットが無ければ、政策として成り立たない。給与を与えずに労働の義務だけ課しているようなものだ。

 ヤフーニュースのコメントには「地方移住の条件を明記するべき」という意見もあった。地域活動に参加して欲しかったり、集会や電話に出て欲しいなら、報酬と一緒にキチンと明示した方がいいだろう。おカネが絡むことなのだから、移住希望者には何らかの審査も設けるべきだ。

 一方で、自治体や地域によっては暮らしてくれるだけでOK(=人口や財源が増えればそれで良し)という場所もあるだろうから、そういうとこは格安賃貸や地元情報(観光客向けのじゃなくて、住民の年齢層、食品の値段、風習のような、住む際に実用できる情報)を提供するだけにして、おカネを出すにしても地域の特産品プレゼント程度にするとか。干渉が嫌いな人間なら、その程度の方がむしろ有難い。

 

 まあ、山口県阿武町の事件については、地方移住云々以前の問題だ。(被害者側も加害者側も)だから、この事件だけで地方移住について語るべきではないだろう。

 でも、この事件を受けた地方移住政策当事者の本音を聞けたことは、私にとっては収穫だった。やっぱり、私のような非社会的な人間は「地方移住」して地元民になるよりも、「お引越し」して余所者として暮らす方が性に合っていそうだ。