セミリタイアするまで非正規

正社員になれないことが分かった三十代。労働者のままでは死にかねないので、非正規のままセミリタイアを目指している、色んな意味で駄目なヤツ。

『ひきこもりの国』 日本がひきこもり先進国になった理由

 いつも読んでいるセミリタイアブログの人が勧めていた本。

 日本には何故ひきこもりが多いのか?を、米国のジャーナリストが外国人の立場から考察している。

 欠点としては情報(出版年)が古く、あくまで2007年時点のデータを基にした考察である、ということ。最も齟齬が大きいのがひきこもりは日本特有の現象であるというもの。(2022年12月時点では、日本以外の国でもひきこもりの増加が報告されている)これが本著のメインテーマなのが厄介だけど、ひきこもりは日本特有の現象という指摘はスルーして、なぜ日本でひきこもりが増えたのかだけに注目して読むのもアリだと思う。Hikikomori の発祥が日本であることは変わらないし。

※以下、引用部分は全て『ひきもりの国』からの引用。

 

ひきこもりの正体

 彼らが経験している日本という社会では、表だった反抗は容認されない。だから、内側に逃げるしかないのだ。彼らが自分たちの不安、反発、探究心を表現するための空間は、安全な寝室の中にしかないのである。

 現在の私もひきこもり状態なので、この逃げ場所が「安全な寝室の中にしかないという指摘はよく分かる。本書には、実際にひきもっている当人や、ひきもり経験者の言葉も掲載されていて、それらの言葉がいちいち身に染みるのだ。

 

 では、どうして一部の人間はひきこもってしまうのだろうか?

「ひきこもりは積極的な選択ではなく、消極的な選択です」のちに上山はそう語った。「ひきこもりになりたくてなるのではなく、ならざるをえないのです。自分の精神と肉体を守ろうとすると、生活ができない。生活していくためには、精神と肉体を犠牲にしなければならない。ひきこもりにとってグレーゾーンはない。妥協点は存在しないのです」

 さっきの逃げ場所が「安全な寝室の中にしかない」というのも消極的な選択の結果だと言える。「自分の精神と肉体を守ろう」というのは、「表だった反抗」のことだ。しかし、「日本という社会では、表だった反抗は容認されない」ので、結果的に生活ができず、「日本という社会」から離れられる唯一の安全地帯である自室へ逃げるしかない。これがひきもりという現象だ。

 

 じゃあ、ひきもりにとっての「表だった反抗」ってなんなのか?

「たしかカントだと思うけど、『私は諸君に哲学を教えることはできない。哲学する方法を教えられるだけである』っていったでしょ」ジュンはいった。「勉強しているときに何度もその言葉が頭をよぎった。そのうち、たかが入学試験に合格するために、なんでこんなに必死で勉強しなければならないんだろうって思いはじめた。試験なんかのために勉強したくない。とにかくただ哲学書を読みふけっていたい ―― 本を手に取って、誰にも邪魔されずにじっくりと読みたい。それが僕のしたいことだとしたら…そうすればいいじゃないか、そう思った」

 もちろん、ひきもりの原因は様々で、「表だった反抗」の定義も人によって異なるだろう。

 だから、あくまで私の場合だが、このジュンというひきもりの「試験なんかのために勉強したくない。とにかくただ哲学書を読みふけっていたい」という言葉が、言い換えれば、社会のためではなく、自分のために生きたい!という言葉こそが「日本という社会」で容認されない「表だった反抗」だ

 

 それでは、社会のためではなく、自分のために生きたい!という言葉が「日本という社会」で「表だった反抗」とみなされて「容認されない」のは何故か?

 巨大な集団のなかでは、どんな見解や理念の相違でも「和」を乱す恐れがある。精神科医の宮本政於は著書『お役所の掟』(講談社)のなかで、厚生省(現厚生労働省)で働いていたとき、集団の方針に従おうとしなかったために、同僚たちから、ありとあらゆる手段を用いて追い詰められ、攻撃された詳細を綴っている。宮本によれば、日本では大人の社会でも、いじめは行動を修正させる方法、すなわち「個人に集団の論理を強制的に受けいれさせる手段」として積極的に許容されており、そこのところが「欧米諸国の状況とは決定的に異なる点だ」という。

 社会のためではなく、自分のために生きたい!という主張は、個人主義的なものだ。一方で、「日本という社会」はそれとは対極にある。本著では「集団の和」などと表現されているが、要するに個人よりも集団を優先する集団主義とでも言えるものが「日本という社会」なのである

 集団主義社会で個人を優先するということは、必然的に集団を敵に回すことになる。想像してみて欲しい。常に一対大勢の戦いを強いられる状況を。始めから勝負にならないことは言うまでもない。この状況を切り抜けるには、力を手に入れるか、降伏するか、逃げるしかない。このときに、力(=自力で生活できるだけのおカネや能力)も得られず、降伏(個人主義者から集団主義者に改宗する)もできず、海外移住などで「日本という社会」から完全に逃げることもできない人間が、最後の手段として選択するのがひきもりという戦略なのである

 ちなみに、最も多くの日本人に選ばれる戦略は降伏だと思うが、最も厄介なのは降伏者だったりする。あの悪名高き戦法「みんな辛いんだから、お前も私と同じように苦しめ」攻撃をしてくるからである。ほんとズルいよなー、この戦法(笑)。集団という強力な防御壁を築きつつ、いま一生懸命戦っている人間を攻撃して、ついでに負けた自分の正当化までちゃっかり行っているんだから。

 

 

集団主義の日本で、個人主義者として生きるには?

渡辺は、日本が自由に心情を吐露できる社会になったとき、ひきこもりはなくなるだろうと考えている。「この社会では、敏感な少年ほど不安を感じてしまうのはなぜでしょう」渡辺は問うた。「それは、この国の国民が幸福ではないから、つまり個人として幸福ではないからだと思います。集団としての幸福を追求するあまり、個人を犠牲にしているのです。なんという矛盾でしょう。人は誰しもまず個人として幸福でなければなりません。自分自身に正直でなければなりません。ところが日本人は、集団に忠誠を尽くし、集団に順応することを優先するため、自分には正直になれないのです」

 ひきこもりは、個人主義集団主義に敗北した姿である。だから、ひきこもりを無くしたければ、「日本という社会」で個人主義集団主義を圧倒するか、そこまで極端でなくとも個人主義集団主義と同程度に認められれば十分ではないか。上の引用では、そうした社会の一例として「自由に心情を吐露できる社会」という言葉を使っている。このような社会ならば、ジュンの「試験なんかのために勉強したくない。とにかくただ哲学書を読みふけっていたい」意見も受け入れられ、彼もひきこもる必要はなくなるだろう。もちろん、哲学書を読みふけるためにある程度の犠牲は必要だが、その犠牲も彼の哲学探究を妨げるような重いものにはならないはずだ。

 

 それでは、もし「日本という社会」がこのまま集団主義を維持し続けるなら、個人主義者はいつまでも孤独な戦いを強いられるのだろうか?本書では、そんな絶望的な未来にちょっとした解決策を示してくれた。

「日本は現在でもたいへん抑圧の強い社会ですから、ふつうの人々でさえそうそう自由に発言はできません。世に警鐘を鳴らして人々の目を見開かせるには、厄介者というか、悪者というか、変人というか、そういう人間だと思われることを覚悟しておかなければならないのです。私は人から変人だといわれることもありますけど、褒め言葉だと思っています」渡辺はクスリと笑った。「だって、日本で変人と呼ばれれば、独創的なすばらしい仕事をしている人ということになるんですから」

 どうせ死ぬまで戦わされるなら、いっそHENZINになろう(笑)!!!

 別にこの意見自体は新しいものではなく、むしろ唱え尽くされて変人じゃないのって変人だよねー、みたいな風潮まである気がしないでもないが、気分が沈みがちな今の私には盲点だった。

 ひきこもっていると、というか、鬱状態になると、とにかく自分を責めて責めて責めまくって、自分がオカシクて間違っている、の鬱々ループに陥りがちになる。なので、そうだ!どうせ自分は他の人間から見たらオカシクて間違っているんだから、いっそ変人として生きちゃえ!と開き直るのは、鬱々ループを断ち切るためにも有効だった。もちろん、これだけでいきなり元気になれるなら世界中のインフルエンサーも要らないわけだけど、とにかく少しでも前に進む元気をくれた言葉だった。

 

 

個人の豊かさと、社会の豊かさ

山田は、キリスト教原理主義の信仰であれ、週二回のヨガのトレーニングであれ、何かしらの精神的、宗教的習慣を実践することによって、物質主義の強力な呪縛から免れることができる欧米人がうらやましい様子だった。そうした私的な、個人的な探求は、人に活力をあたえ、人の存在に意味を付与する。だが、日本人にはそういうものがないらしい。山田はいう。世俗性と真の精神的な安らぎのあいだにある「空虚を埋めるために、日本人にできることは、マンガを読んだり、海外旅行に出かけたり、買い物をしたりといったことぐらいしかありません。まったく情けない。買い物は依存症を引き起こす、精神安定剤のようなものです」

 個人的には、欧米人が「物質主義の強力な呪縛から免れ」ているかどうかは疑問だけど(笑)、物質主義と距離を置くこと自体は、私が常日頃から考えて実践していることである。ただ、「世俗性」と距離を置き「真の精神的な安らぎ」を見つけるにはまだまだ先が遠い。

 日本人(というか、現代人?)が「物質主義」「世俗性」を重視して「真の精神的な安らぎ」を軽視する理由として本書で挙げられているのが、「精神的、宗教的習慣」の欠如である。統一教会のせいで宗教アレルギーの日本人も多いだろうが、宗教の本来の意義は個人が道徳的に生きるための指針になることであって、座右の銘とかモットーなどの緩い言葉に言い換えても本質は変わらない、と私は考えている。先ほどから何度も引用している、ジュンというひきこもりの「試験なんかのために勉強したくない。とにかくただ哲学書を読みふけっていたい」も、同じものだと言える。

 

 それでは、どうして日本では「精神的、宗教的習慣」が廃れてしまったのか?

日本はひたすら科学技術を習得し、近代化を推し進め、列強に追いつこうとしたが、そうやって西洋から拝借した技術や思想の基礎となっている哲学的、あるいは宗教的な部分すなわち個人の確立、探究、冒険といった部分には目を向けなかった。日本は一〇〇年のあいだに、外国からテクノロジーを輸入し、模倣する名人となったが、他の文化がそのような進歩を育むために頼みとしてきた哲学的な手法はいっさい無視した。(中略)同様に、外国の宗教や経済システムなども部分的に取りいれたが、そのとき、個人に力をあたえる恐れのあるイデオロギーは切り捨てた。だからカントやヘーゲルの思想は日本にはほとんど入ってこなかった。
 ゆえに、封建制から工業化、戦争、そして復興までを、新幹線に乗って、恐ろしいほどのスピードでいっきに突っ走ってしまった日本は、じつのところ、その間一度も西洋の「啓蒙思想」を経験していない。つまり、国家から独立した個人の力、社会から独立した自己、集団の感情から独立した個人の良心の重要性、といった考え方は、一度も入ってこなかったのである。

 本書は、日本がひきこもり国家となった歴史の考察に多くのページを割いている。その中から、今回の問いに一番分かりやすいと思った箇所を引用した。

 ちなみに引用文からだと、西洋の啓蒙思想さえ導入してれば日本も欧米と同じになれたのにー、みたいな白人主義思想が透けて見えるが、まあそこは著者がアメリカ人だから仕方ないくらいの気持ちで読み流せば良いと思いますw。

 重要なのは、”国家から独立した個人の力、社会から独立した自己、集団の感情から独立した個人の良心の重要性、といった考え方は、一度も入ってこなかった”の部分だ。現代の日本社会の基となっている戦後の日本社会では、個人主義の考えが、少なくとも国家規模では発展しなかった。これが、個人として生きる指針となる「精神的、宗教的習慣」を現代の日本人がもたなくなり、「集団の和」などを指針として個人ではなく集団として生きるようになった理由だと考えられる。

 日本は集団主義を猛烈に発展させて、経済大国となるほどのおカネも手に入れた。そのために、個人主義を犠牲にしたという背景もあるのだ。今の豊かな生活はそのおかげだと考えると、フクザツである。

 

 

感想とか、よーし頑張るぞー!と思ったこと

 私はこの本を読んだこと(と、5chで勧められていたこと)がきっかけで、仏教に興味が湧き始めている。

 今の私は、労働力が無いと分かってて労働を強制してくる日本社会に絶望して無職を続けており、鬱っぽくて希望も無くなりかけている状態だ。ただ、本当に引き籠ってしまったわけではなく、1月から労働を再開するのだが、おカネが無いから仕方なく、という絶望感をひきずってのことで、それが更に鬱状態を深くさせて… というチョー面倒くさいことになっていた。

 だから、この本を読むタイミングは本当に良かった。

 労働に関しては開き直って、やりがいなんて二の次、とりあえずセミリタイアするおカネさえ溜まれば、あとはどーでもいーんだっぜ!という変人思考で乗り切っていこうと思う。さーて、何か月もつかな(笑)?

 同時に、日本を含めた世界中の思想をもっと知りたい。もともと日本に根付いており、自分の人生観に合う教えも多そうなので、とりあえずは仏教から始めるつもりだ。以前からもマルクス資本論や、アドラーアドラー哲学には嗜んでいたが、もっとたくさんだ。ジュンは「とにかくただ哲学書を読みふけっていたい」と言っていた。それも素敵なことだけど、私の場合は、古今東西の思想を使って自分を幸せにしてあげるという目標付きだ。もちろん、本の調達先は無料の図書館だ!

 

 最後に。

 私は、集団主義で発展した日本社会も、繁栄している日本人も批判するつもりはない。私が日本社会の一員になれないのは、私自身が対処すべき問題であって、社会が悪いとか日本人が間違っているとか、そういう考えは全くない。

 幸せは、人それぞれ。一般的な日本人よりも、私は幸せを見つけるのが下手で遅いだけ。それだけだ。

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