『ひまわり』スープ事件と、環境保護の難しさ
10月のロンドンにて、環境活動家がゴッホの絵にスープをぶちまけて環境保護を主張するという事件が起こった。日本国内では、大衆は環境活動家に批判的で、メディアはイロモノ事件として報道していたというのが、個人的な印象だった。
上の記事の1つ目は、この事件に批判的な日本の態度を批判する内容。書いたのは、『人新世の資本論』の著者である斎藤 幸平氏。2つ目の記事は、その斉藤氏の記事を批判する人々のtwitter をまとめたものである。
斉藤氏は、日本人の環境保護や環境そのものに対する関心の薄さを「日本はマジョリティーが学ぶことをやめている」と批判し、
そして、そのことが声を上げることへの負荷を高め、「沈黙する社会」を作り出している。だから、声を上げる際にも、社会運動の訴えはできるだけ対立を避け、マジョリティーの気分を害さないものにあらかじめトーンダウンしてしまっている。
ことが、今回の事件を起こした犯人たちへの無理解に繋がっているとする。
これに対して、twitter では
理解する必要はないでしょう。思想信条を訴えるために反社会的な行為を行うこと自体が誤りです。反社会的行為は×0であり、仮にどんなに素晴らしい主張をしても信頼されません。
— 分電でんこFC(電力・エネルギー業界応援) (@denkochan_plc) November 8, 2022
「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解せぬ日本の欠点 #東洋経済オンライン @Toyokeizai https://t.co/6j8BFytP3P
自分の主張を浸透させるための違法行為は”テロ”です。
— ひろゆき (@hirox246) November 8, 2022
テロリストに同調しないのは社会秩序の維持のために必要です。
おかしな考えを持ってる人は、「自分の考えが間違ってる」という認識をしないで、「自分の考えが理解できないやつはおかしい」という主張をする昨今ですね。https://t.co/8FfjFN5RYA
と、犯人の反社会性を疑問視するかたちでの反論が取り上げられている。ちなみに、斉藤氏の記事は日本人の無理解・無関心への言及が主目的だと思われ、(少なくとも直接的には)犯人たちの行動を擁護も批判もしていない。
ちなみに、私自身の事件に関する意見は、「犯人たちの主張には納得できるけど、その主張を聞いてもらうことが目的になってしまっているせいで、彼らが本当に環境保護のために行動しているのかが分からないため、擁護できない」というものです。
現代は、「沈黙する社会」にならざるをえない
今は世界中が資本主義経済を採用しているが、人類が資本主義を求める限り、環境問題は進行し続ける。逆に、環境問題に本気で取り組めば、資本主義は停滞なり転換を迫られる。この2つが両立できれば素晴らしいが、今の人類の技術と思考回路では困難である。
だから、環境問題について「沈黙する社会」が出来上がってしまうのだろう。どうにかしないといけないのは分かるけど、それはマジョリティーである資本主義社会を脅かし、ひいてはマジョリティーである自分自身の生活が犠牲になりうる。例えば、環境保護のために自動車の使用を規制する、という法案をある政府が検討し始めたら、彼らが(現政権の一員として)明日の朝日を拝むことはないだろう。でも本当に地球の環境を良くしたいなら、自動車の台数と運転手を減らすのは非常に効果的である。
そういうわけで環境問題を本気で考える人間というのは物凄く少ないので、環境保護団体が業を煮やすのもわかる。しかし、殆どの人間は自身が所属する地球環境と資本主義社会の両立について矛盾した想いを抱え結論を出せず黙殺しており、その葛藤を解決する手段もまだ存在しないのだから、闇雲に正論やスープをぶちまけても、彼らの自尊心を傷つけるだけである。
また今回の件に関しては、環境破壊どころか美術館で絵を楽しんでいただけの人々を攻撃しているので、そもそも手段がお下品だ。「分かってないなあ、美術館で絵を楽しむだけでも環境破壊につながるんだぜ!」と言いたかったのかもしれないけど、だからって人が美術館で過ごす権利を奪う理由にはならないのだから、テロリスト扱いされても仕方がないと思う。
…というような文章を入れるだけでも、斉藤氏の記事は印象が違っていたんじゃないかなー、と思うんですよね(笑)。
環境問題について本気で考えるのは、変人だけ?
「環境問題を本気で考えるのは変人だけ」と言っても間違いではない社会になってしまったのは、とても残念なことだ。特に日本は横並び社会なので、どうしても拒否反応が強いのだと思う。
ただ、私は環境問題に関して日本人は有利だと思っている。日本人は横並び社会だと書いたが、言い換えれば、日本人は集団で同じ行動をとるのが得意だということだ。環境保護は、個人がバラバラに頑張っても効果は無いに等しく、どうしても地域ぐるみや国ぐるみでの取り組みが重要になる。だから、いったん環境保護に向けて舵を切ることさえ出来れば、あとは国なり団体なりメディアなりが音頭を取るだけで色んなことができると思う。この方法だと私のような落ちこぼれは参加しないかもだけど、少なくとも私自身は環境保護推進派なので大丈夫です(笑)。
もう一つ、日本人の宗教観もある。全てのモノに神が宿るという八百万の神様信仰だ。もともと、日本人は自然を大事にする習慣があるのだから。むしろ、現代が無関心すぎるというか… どうしてこうなった。やっぱりカネか!?カネの方が強いのか!?
色々書いてきたけど、このブログだって電気というエネルギーを消費して書いている。私の趣味であるゲームも然りだし、本だって紙と印刷機を使っているし、大好きなピカチュウのぬいぐるみだって… 昨日食べた手羽中の煮込みと炊き立てのお米だって… そもそも生きるだけでも排泄物処理や寝具や服が必要なワケでその資源やエネルギーも… と考えだすとキリがない。
ほんっとうに、環境問題って難しい!