セミリタイアするまで非正規

正社員になれないことが分かった三十代。労働者のままでは死にかねないので、非正規のままセミリタイアを目指している、色んな意味で駄目なヤツ。

依存している人間を見ていると、心がザワつく理由を考えてみた話

私は、どうも依存性のある人間に苦手意識があるらしい。

以前の職場では、実家から出ず、バイトもお小遣い程度で、貯金はしないで趣味に全力消費!という人が何人かいた。どういう生き方をしようと他人の勝手だし、当人が困っているわけでもなかったのだけれど、何故だかそういう人たちを見ていると心がザワついて、その理由が分からなかった。

最初は「嫉妬」だと思っていた。東京に実家があって、高い家賃を払わなくても労働先には困らず、子供から家賃の取り立てが必要ないくらいには親も裕福。私のような地方民(埼玉だからまだマシだけど)からすると非常に恵まれた環境だ。

心がザワついたまんまだと気持ちが悪いので、じっくりと考えてみることにした。

 

試しに自分の境遇を、「実家が買い物に便利で労働先にも困らない場所にあり」「両親は成人した子供でも養えるくらいに裕福で」おまけに「両親は菩薩並に優しく、成人した子供が労働をせず趣味に没頭していても笑って許してくれる」という仮定に置いて想像してみたが、物凄く居心地が悪い。実際にそんな状況に置かれたら、実家を出てしまうか、せめて家賃の代わりに両親のための貯金をするか、それくらいしないと耐えられない気がする。それくらい大きな不安を感じた。

この状況だと、「子供」は「親の資本」に依存していることになる。「親の資本」というのは外部要因であって、一般人が外部要因を制御することはほぼ不可能であることを考えると、この「子供」の人生はいつ崩壊してもおかしくない非常に不安定なものとなってしまう。わたしが感じた大きな不安の正体は、これだと思われる。

こういう不安を解消するために、(資本主義に生きる一般的な)人間は労働して資本を使うことで「土台」を固め、自分の人生が崩壊する可能性を少しでも減らす。そうしておけば、もし「親の資本」のような外部要因が崩壊しても「土台」は残っているから、そこからやり直すことが出来る。

しかし、先ほどの例に挙げた「親の資本」に依存している「子供」は、「土台」作りを放棄して外部要因となる「親の資本」をそのまま「土台」にしてしまっている。だから、「親の資本」を「子供」自身は制御できないうえに、「親の資本」が崩壊した時に「土台」すらない場所から始めなくてはならないという、二重の不安定さがある。土台なんていつでも作ってやるぜ!というガッツがあれば良いけど、依存するような人間がそんなものを持っているとは思えない。

 

ということで、私が以前の職場の人たちに感じた心のザワつきの正体は、不安だったらしい。そりゃあ、お世話になった人たちが将来自活できなくなって、恨み言を吐きながら死んでいく様子なんて、できれば聞きたくない。それに「自分も、もしかしたらこうなるかもしれない」という要らぬ不安要素まで押し付けてくる、という意味でも精神衛生上よろしくない(笑)。

 

こんなことを書くと、いわゆる社会的弱者となる人たちや、病気やイジメなど(これも外部要因ですね)本人にはどうしようもない理由で依存せざるをえない人たちに、理解が無いように思われるだろう。実際、私はまだそういう状態に無いので理解できていないことはたくさんあると思う。

ただ、私が不安を感じる依存というのはあくまで、本人に「土台」を作る気が無く積極的に依存という生き方を選んでいる場合のみである。まあ、国からの支援や他人のヘルプを受けながら、人生の「土台」作りをしている状態を依存と言えるかどうは疑問だし。

言うまでもないけど、依存先は「親の資本」に限った話ではない。

 

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