セミリタイアするまで非正規

正社員になれないことが分かった三十代。労働者のままでは死にかねないので、非正規のままセミリタイアを目指している、色んな意味で駄目なヤツ。

おカネを使うのが怖い

 おカネを使うのが怖い。

 正確には、おカネを使うことで貯金が無くなり、また労働者に戻るのが怖い。

 労働者は、苦痛だ。私は、自分で時間管理が出来ないのが非常に苦手だ。身体を動かしたくなるタイミング、逆に休ませたくなるタイミング、空腹を感じるタイミング、集中できるタイミング。私は体調や気分の動きが毎日一定ではないので、それを他者が定めたスケジュールに無理やり合わせるのが、とってもとっても辛い。

 

 私にとっての労働者とは、自分以外の人間に、自分の時間を捧げる者。

 そして、それは私にとって苦痛そのもの。

 おカネを使うということは、その苦痛の縄に、自分で自分の首を通していくこと。

 労働者になるということは、その縄で首を絞めること。

 耐えられなくなったら、死ぬ。

 その首を絞められた状態で、他者に「こいつは不要だ」と判断され縄をきつく締め上げられても、死ぬ。

 

 人間にとって、おカネとは何なのだろうか。

 恐らく、殆どの人間、普通の人間にとって、おカネは「おカネという物質」 ― 印刷された数字と同等の価値を持つ紙切れ或いは金属 ― として認識されていると思う。

 しかし、私はおカネを「おカネという物質」として認識することが出来ない。じゃあ何なのかというと、「人間の時間を物質化したもの」。もし、私が今握っているおカネが、私に課された労働の報酬として存在するなら、そのおカネは私の時間を物質化したものだ。そして、そのおカネを消費するということは、私の時間を消費するということだ。嫌な言い方をするなら、自分の寿命を削っているのだ。

 

 寿命を削ることは、仕方のないことだ。寿命を削らなければ、生きることはできない。その事実は、労働をしてもしなくても変わらない。寝てるだけでも寿命は減っていく。

 労働の報酬として得たおカネという物質は、「自分の寿命をどれだけ労働のために消費したか」を可視化する。何をしても寿命は削れていくという動かせない事実の中で、敢えてそのおカネを得るために労働を行ったことの意味は、人によって全く違う。

 労働が充実、達成、やりがいに繋がる普通の人ならば、労働は当たり前のことであり、自分の存在価値を高めることであり、生きる意味となる。よって、労働によって得たおカネを消費することは、さらなる充実と達成とやりがいの獲得、存在価値の向上、生きる意味の証明となる。そこには何の躊躇いが生じる理由も無く、むしろ喜ばしく、誇り高い。

 逆に、労働から上記のような(副次的な)報酬を得ることなく、ただ苦痛、憂鬱、倦怠のみを感じる、お世辞にも普通と言えない人たちにとって、労働はその感じ取るもの以外の何物でもない。彼らにとって、労働は自分の存在価値を高めたり存在意義を見出すどころか、当たり前のことですらなく異物でしかない。よって、労働によって得たおカネを消費することは、さらなる苦痛、憂鬱、倦怠の積み重ねとなる。確かに、自分の人生を良いものにする何かを獲得するためにおカネを消費するのだが、おカネを消費するという行為そのものに対しては、常に躊躇いが生じ、その理由は、そこに何の自己を肯定するものもなく、むしろ自己を破滅的な状況へと追い込む確実な未来を予感させるからだ。

 

 だから、私はおカネを使うのが怖い。

 今の私は、自分が労働することでしかおカネを獲得する手段がない。それなのに、労働に希望的なものを感じることが出来ない、絶望的で恐ろしい感情しか抱けない。ドロドロとして底も横も何も見えない未来に、自分を追い込むことになる。だから怖い。

 資本家が羨ましい。彼らは自分の時間を犠牲にすることなく、おカネを獲得できるからだ。自分の時間を、自分のためだけに使うことが出来るからだ。それは現代(=資本主義)に限らず、いつの時代に於いても、最も貴重な財産だ。

 

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