セミリタイアするまで非正規

正社員になれないことが分かった三十代。労働者のままでは死にかねないので、非正規のままセミリタイアを目指している、色んな意味で駄目なヤツ。

何も考えず、ただ没頭するだけの「無」の時間

大人になって、ゲームを長時間遊べなくなった。漫画を数巻読んだら、何となくぼんやりしてしまう。子供の頃ほど、趣味に没頭できなくなった。自分は無趣味なんじゃないかとすら思う。子供の頃の方が集中力があったのかな、と思うし、世間一般でもそういう結論になることが多いから、何となく「大人になって集中力が減ってしまったんだなぁ」と思っていた。

が、そうではなく、大人になって考えごとが増えたせいで、趣味の時間にも雑念が入ってしまっている、と言う方が正しいのではないか、と思うようになってきた。ゲームをしていても、明日の仕事やだなーとかインデックス投資は日経とS&Pのどっちが良いのかなーとか全然関係のないことを考えてしまう。かと思えば漫画を読んでいるときは、漫画の出来事と現実の出来事を結びつけて感傷に浸ってしまう。子供の頃は、趣味の時間は目の前の趣味にだけ集中していれば良かった。その他のことは大人がやってくれるし、何も心配することはなかった。でも、今は違う。目を背けようのない未来の出来事が、体に染みついてフラッシュバックしてしまう過去の出来事が、かけがえのない現在と言う時間を侵食してくる。「趣味に集中できなくなる」という現象は、子供から大人へ、もっと正確にいうと「依存した人間から独立した人間に」なった証なんじゃないかと思う。そう考えると、たまに実家に帰ったときって、なーんにも考えずテレビ見たり、喋ったり、ゲームしてる時間が増える気がする。

瞑想やマインドフルネスが流行っているけれど、人生というものは、適当に「無」の時間を必要とするんじゃないだろうか。この「無」というのも、自分の内面を感じ取るだの宇宙と一体化するだの、そこまで高尚なことじゃなくて良くって、自分の存在を外界から切り離した空間に置ければ何だって構わない。それこそ趣味にひたすら没頭したり、波長が合う人間ととりとめのない話をするのだって、一種の「無」の時間になるんじゃないだろうか。

この「無」の時間が欲しくて、最近は瞑想を始めた、独学でしかも数分間が限界だけど、まどろみを伴う解放感が何となくクセになる。誰かに付いて本気で勉強してもいいかもしれない。ちなみに私の瞑想方法は「身体の声を聴く」という、これまた何処で仕入れてきたのか分からないアヤシイ方法なのだが、身体の声を聴いてみた結果、私はどうも音を作りたがっているようなんである。カラオケは前から好きだけど、楽器は殆どやったことが無い。そのくせ以前から何となくギターを始めてみたかったのだけど、実は身体が望んでいたことだったのかもしれない。

ちなみに、私が一番「無」になれる瞬間は睡眠時を除けばマッサージされている時間だったりする。それも、上手い人に揉んでもらったり、十万円超えるような御大層なマッサージチェアフジ医療器とか)に座っているときに限られる。貧乏な癖に、こういうときにやたらカネがかかるのが悩みである。

 

 

 

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